タイトル海軍は盧溝橋事件が好機と見て、
華中・華南で戦争を始めようとする

(『日中戦争全史・上巻』笠原十九司著から抜粋)

華中や華南で日中戦争を始める事を目指していた日本海軍にとって、盧溝橋事件(華北で日本陸軍が中国・第29軍と始めた戦闘)は好機到来となった。

1937年7月11日は、盧溝橋の現地で日中の停戦協定が成立した日だが、日本海軍・軍令部は第1連合航空隊と第2連合航空隊から成る「特設連合航空隊」を編成した。

海軍・軍令部は、1937年7月12日に、次の内容の『対支の作戦計画・内案』を策定した。


宣戦布告は行わない
ただし向こうが宣戦する場合、または戦勢の推移によっては宣戦布告する


差し当たりは平津(北京と天津)地域(※これは華北にある)において、陸軍と協力する


戦局拡大の場合は、下の作戦方針にする(第2段の作戦)

(イ)
中支(華中)の作戦は、上海の確保に必要な兵力を派遣し、主として中支の敵航空勢力を掃蕩する

(ロ)
封鎖線は、揚子江および浙江沿岸など、我が兵力の所在地の付近において局地的な封鎖を行い、支那の船舶を対象とする
ただし戦勢の推移いかんでは、これを拡大する

(ハ)
支那海軍に対しては、中立および不動の警告をし、違背したら猶予なく攻撃する

(ニ)
上海の陸戦隊は、二個大隊を増派し、青島にも二個大隊を派遣する
いずれもそれ以上を必要になったら、艦船で揚陸させる

(ホ)
作戦の開始は、一斉の急襲をもってする

第1、第2航空戦隊は、杭州を空襲する

第1連合航空隊は、南昌と南京を空襲する

第2連合航空隊は、当初は北支方面で使用する

7月12日の段階では、陸軍・参謀本部と政府は「北支事変」として、戦争エリアを北京と天津に限定して考えていた。

しかし海軍・軍令部は、上記の『対支の作戦計画・内案』の③にあるとおり、戦線を華中・華南へ拡大する準備を始めていた。

第3艦隊の司令長官である長谷川清は、さらに次の意見書を海軍中央(軍令部と海軍省)に具申した。

(※第3艦隊は、主に中国での作戦に配備されていた艦隊である)

「武力で日中関係を打開するなら、中国の中央勢力を屈服させるしかない。

中国を制するには、上海と南京を制するのが最重要で、中支作戦は上海の確保と南京の攻略のために派遣軍は5コ師団を要する。

また開戦時の空襲作戦は、その後の作戦の難易を左右するから、使用可能な全航空兵力をもって行う。」

長谷川清は、上の方針に基づいて、7月19日に第3艦隊の『作戦計画・内案』を示した。

こうして中国現地にいる第3艦隊は、中国との全面戦争へと拡大させる事を企図し、準備を進めた。

海軍中央(軍令部と海軍省)は、1937年7月27日に協議して、『時局処理および準備に関する省部協議の覚書』を決定した。

この覚書では方針として、「今後の情勢は対支の全面作戦の機会が大なので、海軍は対支の全面作戦の準備を行う」とある。

すこし後に飛ぶが、海軍の暗躍(大山事件)もあって日中の戦争は華中・華南まで拡大し、「北支事変」から「支那事変(支那との全面戦争)」に拡がった。

すると1937年の9月4日から8日にかけて、臨時国会が開かれた。

これは陸海軍の要請に基づいており、臨時軍事費を決めるためだった。

大蔵省は陸海軍の要求を丸呑みして、予算案は簡単に採択された。

こうして海軍は4億円、陸軍は14億円、予備費を含めると合計20億円もの臨時軍事費が可決された。

しかも一般会計とは別な「臨時軍事費・特別会計」が設置され、支那事変(戦争)が終結するまでを一会計年度とみなして続行された。

『日本海軍航空史(4)戦史篇』(時事通信社)の第5章には、次の一文がある。

「米国海軍を主対象(仮想敵)とする日本海軍の軍備は、1931年に始まる第一次・軍備補充計画から進められた。

その際、支那事変がなくても推進されたと思われるが、支那事変が促進の役割を果たした。

ことに事変に伴う臨時軍事費の設定は、軍備の促進に大きく寄与した。

㊂計画(第三次・軍備補充計画)と㊃計画(第四次・軍備補充計画)は、平時ならば国内・国外で異常な刺激を呼んだであろう。

支那事変は、軍備計画の実施および出師準備に、隠れ蓑の役をもって寄与した。」

これを読めば、なぜ海軍が大山事件という謀略や南京爆撃を仕掛けてまで、日中戦争の全面化を謀ったかが分かる。
(※大山事件や南京爆撃は、別ページに書いてあります)

(2020年7月31日&8月4日に作成)


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