(『日中戦争全史・上巻』笠原十九司著から抜粋)
盧溝橋事件が1937年7月7日に起きると、「重大決意」(北支に出兵する決意表明)を近衛文麿・内閣は11日に発表した。
だが文麿は、本心では北支事変の早期解決を願っていた。
近衛内閣がこの決意表明を行った日、陸軍・参謀本部の第1部・第2課の河辺虎四郎・課長は、「近衛首相か広田外相が南京(中国・国民政府の首都)に行って、国民政府と和平の折衝をすればどうか」と献言した。
文麿はこれに乗り気であった。
裕仁(昭和天皇)も、和平に関心をはらい、37年7月30日に文麿に対して「永定河(盧溝橋のかかる河)の東北地区を平定すれば、軍事行動を止めてよいのではないか」と述べた。
裕仁はさらに、8月5日には文麿に、6日には海軍・軍令部総長(皇族の博恭)に、10日には陸軍・参謀総長(皇族の載仁)に対して、それぞれ外交での解決を望む意向を伝えた。
裕仁の意向を受けて、首相・陸相・海相・外相は和平工作を検討し、まず民間人を派遣して交渉することにした。
8月6日に『日支国交の全般的調整案の要綱』が作成され、翌7日には外務省・東亜局第一課が起案した『日華停戦条件』に外相・陸相・海相が花押した。
近衛文麿・首相は、暑気あたりで6~11日は自邸に引き籠っていた。
文麿が大事な局面で体調不良で引き籠もるのは、この後も繰り返されていく。
上の要綱と停戦条件は、日本が華北分離工作で得た権益を、大筋において清算するもので、日本側が大きく譲歩するものだった。
これは、陸軍の石原莞爾が7月30日に海軍・軍令部に伝えた事態収拾案と重なるものだった。
莞爾はこの時、軍令部の嶋田繁太郎・軍令部次長に対し、「海軍部内には対支の全面作戦を行うべきとの強硬論が多いが、作戦の本質を知らないものである」と批判している。
和平工作の使者には、民間人の船津辰一郎が選ばれた。
辰一郎は、天津などの領事館で長く外交官をつとめた経歴を持っていた。
和平案に骨身をけずった石射猪太郎・外務省東亜局長は、8月4日の日記に「これが順序よく運べば、日支の融和は具現する。崇い仕事だ。」と書いている。
8月7日に上海に着いた辰一郎は、9日に国民政府・外交部の高宗武と会談し、交渉を始めた。
宗武は、「蒋介石は国民に対して顔が立つ程度ならば必ず我慢して、日本の要求に応ずると思う」と述べた。
この日中(日支)の和平交渉を恐れたのが、日本海軍の軍令部ならびに第3艦隊であった。
(※第3艦隊は、主に中国での作戦に配備されていた艦隊である)
海軍は、北支事変を全面戦争に拡大させる事を望んでおり、(別ページの『海軍は盧溝橋事件が好機と見て、華中・華南で戦争を始めようとする』に書いたとおり)戦争を拡大させる準備を進めていた。
海軍は、前年の北海事件の時に、中国を渡洋爆撃しようとしたが陸軍に止められた経験から、戦争を始めるには大きな口実が必要だと考えていた。
そこで第3艦隊の司令部が仕掛けたのが、『大山事件』という謀略である。
当時の上海には、列強国が行政権を持つ、共同租界があった。
中国は不平等条約を強いられ、国内に治外法権エリアがいくつもあった。
日本海軍の陸戦隊も、上海の共同租界にいた。
船津辰一郎が上海に到着して和平交渉に動き始めると、海軍の上海特別陸戦隊の大川内伝七・司令官は、部下の大山勇夫・中尉を呼び出した。
そして口頭で、「密命」をした。
その内容は、「お国のために死んでくれ、家族の面倒は見る」「こちらからは攻撃するな」などであった。
この密命は、第3艦隊の長谷川清・司令長官から、大川内伝七に命じられたものだった。
伝七が部下の中から大山勇夫を鉄砲玉として選んだのは、勇夫が「童貞中尉」と仲間から風評される性格で、独身であり、大山家の三男で実家はすでに長兄が継いでいた事や、頭山満に心酔する壮士タイプだったからだ。
『大山勇夫の日記』によると、彼は1937年8月8日に身辺整理をし、風呂に入ると新しい襦袢と褌に着替えた。
大山事件の当日である8月9日、早めに夕食した勇夫は、その日に限り軍服姿で軍刀を持ち、拳銃は携帯せず、どこに行くかも告げずに、斎藤与蔵・一等水兵の運転する海軍陸戦隊の車で出かけた。
いつもの視察では、私服で下士官らと共に出かけ、拳銃を携帯するのが常であったから、この日は明らかに違った。
夕方5時頃、勇夫を乗せた車は、上海の西郊外にある虹橋飛行場に向かった。
この飛行場は、中国空軍の施設である。
勇夫の車は、中国の保安隊が守る2つの検問所を強行突破して、飛行場に進んだ。
ここに至り、検問所の歩哨たちは走行する車を銃撃し、飛行場内の警備員も銃撃を加えた。
後の検死によると、大山勇夫はほぼ即死、負傷して運転席から転げ落ちた斎藤与蔵は中国保安隊に殺された。
2人の死体には蜂の巣のような銃痕があり、軍刀で斬られた痕もあった。
この大山事件は、日本海軍が仕掛けた謀略だったが、日本のマスメディアは中国軍を悪者にし、敵愾心を煽る宣伝をした。
『東京朝日新聞』(1937年8月10日付)は、「帝国海軍中尉、上海で射殺さる」「鬼畜の保安隊、大挙包囲して乱射、運転手の水兵も拉致」との大見出しで扱った。
中見出しには、「共同租界のテロ、帝国軍人に挑戦」「(日本の)陸戦隊出動、非常警戒」「海軍は容赦せず、支那側の態度を凝視」などとある。
『東京日日新聞』も、「猛射を浴びせ即死せしむ」「無法鬼畜の如き保安隊の行為」とセンセーショナルに報じた。
『読売新聞』も、「滅多斬りして所持品を掠奪、血に狂う鬼畜の所業」と報じた。
こうした報道の結果、日本では中国に対する報復が声高に叫ばれる様になった。
なお、大山勇夫の遺族には、特別の補償がなされた。
『大山勇夫の日記』に付された彼の年譜には、以下の処置と補償が記されている。
①
海軍省の人事局長から大山勇夫の実家へ、8月9日付で勇夫が「大尉」に昇進した旨の電報が届いた
さらに米内光政・海軍大臣からも弔電が届いた
②
殉職に対して、海軍省からは245円が賞賜され、天皇と皇后からは祭祀料20円、死亡賜金706円、埋葬料金67.5円が下賜された
③
大山勇夫の葬儀では、米内光政・海軍大臣と塩沢幸一・佐世保鎮守府長官が弔問するという破格の待遇となった
大山勇夫は後に、「海軍七勇士」の1人になり、靖国神社の遊就館内に胸像が陳列された。
この軍神なみの表彰について、勇夫の母である大山セイは「母の令状」(大山勇夫の日記に収録)の最後で「武功の無かった者へ深く同情して下さり厚く御礼申します」と書いている。
確かに、大山勇夫は武功を挙げていない。
それなのに海軍首脳が軍神なみに扱ったのは、「密命」の存在なしには考えられない。
大山事件の翌日(8月10日)に、日本側、中国側、共同租界の責任者が集まって、事件現場の実地検証が行われた。
こうして事件の解明がスタートしたのだが、同じ日に日本海軍・軍令部は、次の事件処理方針を決定したのである。
「大山事件の解決は、次の事項の充足を目途として交渉する。
支那側が誠意を示さなければ、実力を以ってこれを強制することも辞さない。
① 事件責任者の陳謝および処刑
② 停戦協定の地区内における中国保安隊の員数・装備・駐屯地の制限
③ 停戦協定の地区内における支那陣地の撤去
④ ①~③の実行を監視する日支兵団委員会の設置
⑤ 抗日活動の取り締まりの励行 」
海軍・軍令部は、中国側(国民政府)が受け入れられない要求を作成し、これを8月11日に上海市長に提出した。
受け入れなければ実力行使するというのだから、宣戦布告に近い。
南京の国民政府は、この要求に対し、蒋介石が「承認できない」と拒否し、同時に「戦闘の準備を命令した」のである。
蒋介石の対日戦略は、中国が単独では日本には勝てないので、『日中戦争を世界戦争へ発展させること』だった。
具体的には、日本軍を上海や南京という欧米列強国の権益が錯綜する場所へ侵攻させて、米英ソの対日戦争を促すことであった。
中国軍が防衛陣地を築いている上海や南京に日本軍を引き入れて、消耗戦を行いつつ、日本の侵略を国際社会に訴えて、米英ソに対日戦争へ踏み切らせようとした。
8月10日(大山事件の翌日)に、日本海軍・軍令部は、陸軍に対して2個師団を上海に派遣するよう求めた。
同12日には、長谷川清・第3艦隊司令長官からも、陸軍を派遣するよう要請した。
8月12日には、博恭・軍令部総長から、長谷川清に次の機密指令が与えられた。
① 敵が攻撃してきたら、機を失せずに敵の航空兵力を撃破すべし
② 武力進出(の地域)に関する制限を解除する
この密命を受けて、長谷川清は南京などへの空襲命令を発令し、第3艦隊の航空隊は出撃待機に入った。
8月13日に長谷川清は、次の命令を下した。
「明日に空襲を実施する場合、全力を挙げて敵の航空基地を急襲し、覆滅すべし。
この行動は特に隠密を旨とする。
空襲目標は、南京、広徳、杭州、南昌、虹橋とする。」
爆撃目標の第1に南京をあげたのは、国民政府の首都があるからだ。
また、上海の爆撃目標が虹橋だけなのは、共同租界などがあるので上海市街は爆撃できないからである。
広徳、杭州、南昌は、国民政府の軍事拠点になっている都市だ。
米内光政・海軍大臣は、8月12日の夜に近衛文麿・首相の家を訪れて、「緊急に4相で会議を開きたい」と伝えた。
そして杉山・陸相と広田・外相が呼び出され、4相会議が行われて、陸軍の上海派遣が承認された。
8月13日の午前10時頃、すでに戦闘命令を受けていた日本海軍・陸戦隊と、中国軍が、閘北と虹口の境界付近で戦闘を始めた。
こうして『第二次・上海事変』が始まった。
13日の夜には、近衛内閣の臨時閣議が開かれ、陸軍の上海派兵の閣議決定が行われた。
(2020年7月31日&8月2日に作成)