(『日中戦争全史・上巻』笠原十九司著から抜粋)
日本海軍は、1937年8月13日に『第二次・上海事変』(上海における日中の戦争)が始まると、杭州などを航空部隊で急襲しようとした。
だが翌14日の朝は台風で、空襲作戦は中止となった。
その14日の午前中に、中国空軍が上海の黄浦江に停泊中の日本海軍・第3艦隊へ爆撃を行った。
これに第3艦隊の司令長官である長谷川清は激昂し、天候の回復を待たずに航空隊の出撃を命じた。
そして台北(台湾北部)基地の航空隊は、14日午後2時40分に出撃し、浙江省の杭州と安徽省の広徳を爆撃した。(※杭州と広徳には中国軍の軍事拠点があった)
悪天候のため、2機が消息不明となった。
同じ8月14日に、日本海軍・軍令部は『大海令・第13号』を発令し、次の命令を下した。
「日本帝国は上海に派兵し、同地の支那軍を撃破する。
第3艦隊の司令長官は、敵の航空兵力を撃破し、必要に応じて敵の艦隊を撃破すべし。」
こうして海軍は、37年7月12日に策定していた『対支の作戦計画・内案』にある「第2段の作戦」、すなわち中国との全面戦争を始めたのである。
米内光政・海軍大臣は、8月14日の夜に閣議を開かせて、「北支事変は、日支事変に拡大した。かくなる上は南京(中国・国民政府の首都)を撃つのが当然ではないか」と主張した。
この主張が通った結果、翌15日の午前1時半に、近衛文麿・内閣は次の政府声明を発表した。
「日本帝国は隠忍に隠忍を重ね、事件の不拡大を方針として平和的に処理しようとした。
だが南京政府は挑戦的な態度を露骨にし、上海において帝国軍艦に爆撃を加えた。
このように支那が侮辱してきて、全支那にわたって日本の居留民の生命財産が危殆に陥るに及んでは、帝国としては支那軍の暴戻を膺懲し、南京政府の反省を促すしかない。」
午前1時半という、異常な時間の発表を考えると、15日の早朝に予定する南京への渡洋爆撃に大義名分を与えるためだったと思われる。
この政府声明の2時間前、14日の23時半にはすでに、台湾の台北基地と長崎の大村基地に対して、「早朝に発進して、それぞれ南昌と南京を空襲せよ」との命令が出ていた。
政府声明にある「支那軍の暴戻を膺懲し」という言葉は、メディアによって「暴支膺懲」とのスローガンになって使われ、日本国民の好戦意識を煽動した。
上述の8月14日23時半の「南昌と南京を空襲せよ」との命令を受けて、長崎の大村基地に待機する木更津航空隊に対し、第1連合航空隊司令から次の命令が出た。
①15日に全力で南京を空襲しろ
②空襲の時期は台風の情況により司令に一任せよ
15日の午前9時10分に、木更津航空隊は20機が大村基地を発進し、南京に向かった。
15時ごろに南京上空に達し、爆弾を投下して格納庫と飛行機20数機を爆破した。
しかし地上から砲火を浴び、さらに中国軍機との戦闘も行われ、木更津隊は4機を失った。
1機には7人が搭乗しているので、28人が犠牲となった。
さらに空中戦の時に2人が機上死しており、木更津隊は30人が亡くなった。
帰還したものの、6機は被弾のため出撃不可能となった。
15日には他にも、台北基地から出撃した鹿屋航空隊が、南昌を爆撃した。
さらに上海近海にいる空母・加賀からも、34機が出撃して、蘇州飛行場、南京飛行場、広徳飛行場を爆撃しに向かった。
広徳飛行場では、待ちうけていた中国軍機と戦闘になり、8機が撃墜された。
空母・加賀の航空隊は、10機が撃墜、戦死は29人となった。
日本海軍の航空隊は、8月15日の空爆作戦で59人もの搭乗員を失った。
これほどの犠牲を出したのは、中国空軍の戦力を見くびって、戦闘機の護衛を付けずに、爆撃機だけで作戦を行ったからだった。
さらに搭乗員の死者が多かったのは、捕虜となるのをタブーとする思想が兵士に強制されており、撃墜されても落下傘を使わず、愛機と運命をともにしたからだ。
日本海軍はこの日の爆撃の犠牲の多さから、長距離爆撃機に随行し護衛できる戦闘機の開発に着手する。
海軍省は1937年10月6日に、三菱重工へ『十二式艦上戦闘機の計画要求書』を交付して、それがゼロ戦を製作する契機となった。
大きな損失を出した8月15日の南京への渡洋爆撃であったが、海軍省は「世界航空史上で未曽有の渡洋爆撃」と喧伝した。
海軍の意向を受けて、新聞メディアも「敵に甚大の損害を与える」「敵の本拠を空爆」「空前の戦果」などと大々的に報じた。
東京朝日新聞は、戦果を誇大に報じ、損害については「我が飛行機は全部帰還せり」と虚偽の報道をしているが、後の大本営発表を思わせる。
日本海軍の航空隊は、宣戦布告もせずに首都の南京をいきなり空爆した。
この国際条約を完全に無視した行為で、日中の戦争を一挙に全面戦争へ拡大させた。
メディアの極端な報道もあって、日本国民は南京爆撃に歓呼の喝采をあげた。
これにより政府と軍の戦局不拡大派は後退し、戦争拡大を狙う派が「勝ち組」となった。
近衛文麿・内閣は8月17日に、「従来執ってきた不拡大の方針を抛棄する、戦時態勢の準備を講ずる」として、方針の転換を決めた。
蒋介石の国民政府(南京政府)は、8月15日の近衛内閣の暴支膺懲の声明を、「日本が全面戦争を宣言したもの」と受け止め、戦争体制の構築を急いだ。
そして8月21日に、『中ソ不可侵条約』を結び、これを契機にソ連から戦闘機などの援助を受け始めた。
8月22日に国民政府は、中国共産党の紅軍を国民革命軍(国民政府の軍)に編入した。
こうして国民党と共産党の『第二次・国共合作』が進んだ。
(2020年8月2日に作成)