(『日中戦争全史・上巻』笠原十九司著から抜粋)
盧溝橋事件の発生当初は、近衛文麿・内閣は戦線の不拡大を目指した。
だが、なし崩し的に方針を転換し、1937年8月28日の閣議では「国民精神総動員の実施要項」を決定した。
37年9月2日の臨時閣議では、「北支事変」と呼んでいた日中の戦争を、戦線の拡大に応じて「支那事変」と呼称することを正式に決定した。
日本政府が支那事変と呼んで、「日支戦争」としなかったのは、宣戦布告をせずに戦争を始めたからである。
1941年12月8日に対英米に宣戦布告した時、「支那事変を含めて大東亜戦争と呼称する」と閣議決定して、日本政府は初めて支那事変が戦争であったと認めた。
日本政府が戦争を「事変」と呼称したのは、国際法の『開戦に関する条約』に違反した事を欺くためであった。
そして日本軍は、「事変であり戦争ではない」と強弁して、国際法を守らず、捕虜の虐殺や毒ガス兵器の使用、非戦闘員の殺害などを、正当化しようとした。
国際的に通用しない、独善的な論理である。
その一方で、国内では「戦争」である事を強調し、国民を総動員する体制を築いていった。
正にダブル・スタンダードである。
1937年9月4日に裕仁(昭和天皇)は、衆院の開院式において次の勅語を発した。
「中華民国は、日本帝国の真意を解せずに、みだりに事をかまえて、ついに今次の事変(支那事変)に至った。
朕は、これを憾(うらみ)とする。
今や朕が軍人は、その忠勇をいたしつつある。
これは中華民国の反省を促して、東亜の平和を確立したいからである。
朕は、帝国臣民が忠誠心を奉じて、心を1つにして、この目的を達成することを望む。」
この勅語は、中国に武力侵略した日本が、防衛のために起ちあがった中国を「東亜の平和を乱すもの」として、反省を迫っている。
この勅語は、臣民すなわち日本国民に、侵略戦争を「聖戦」と思い込ませ、戦争に駆り立てた。
裕仁の戦争責任が顕著に示されているものだ。
近衛文麿・首相は、上記の裕仁の勅語と同じ9月4日に、施政方針演説で「中国が侮日・抗日の気勢をあげるため、戦局はやむなく華中・華南に波及した」と述べ、「挙国一致の国民精神の総動員をしよう」と呼びかけた。
9月9日に近衛内閣は、「尽忠報国の精神を振起して」「挙国で聖戦に立ち向かう」ために、国民精神の総動員を実施する旨の、内閣告諭を出した。
9月11日には日比谷公会堂で、政府主催の国民精神総動員の演説会が開かれ、近衛文麿は「時局に処する国民精神の覚悟」と題する、次の演説を行った。
「ここに至っては、日本の安全の見地からに留まらず、広くは正義人道のために、特に東洋百年の大計のために、一大鉄槌を加えて抗日勢力の根源を破壊し、徹底的な実物教育によって相手の戦意を喪失させる。
その後に支那の健全な分子に活路を与えて、これと手を握って東洋の平和を確立する。
この日本の歴史的な大事業を、我らの時代に解決することは、我らの光栄であり、喜んで任務を遂行するべきと思う。」
文麿が挙国一致の戦争体制を呼びかける姿は、ニュース映画やラジオ、新聞で大々的に報道された。
マスコミや官庁や学校などは、「呼びかけに応じて挙国一致体制を構築せよ」というキャンペーンを展開した。
こうして日本国民に「暴支膺懲」の熱狂が広まった結果、南京(中国政府の首都)の攻略を待ちわびる国民意識が生まれた。
(2020年8月3~4日に作成)