(『日中戦争全史・上巻』笠原十九司著から抜粋)
1937年9月10日に、日本海軍が建設していた上海公大飛行場が、使用できるようになった。
そして大連郊外の周水子基地から、第2連合航空隊(司令官は三竝貞三)が移駐してきた。
上海の航空基地が使用できる事になったため、南京(※中国政府の首都)などに対して、それまでの渡海爆撃(日本や台湾から出撃しての爆撃)に代えて、戦闘機の護衛を付けた本格的な爆撃部隊が出撃可能となった。
9月14日に、海軍の長谷川清・第3艦隊司令長官は、南京を空爆する爆撃部隊の編成(指揮官は三竝貞三)を命じ、広東、漢口、南昌などの空爆も命じた。
日本海軍は、世界史に前例のない、敵国の首都の戦略爆撃を企図したのである。
それは、後の空爆を主とする戦争の先駆けだった。
1937年9月19日に上海公大飛行場を出撃した部隊は、南京を爆撃した。
この南京爆撃は、第1次(9月19日)から第11次(9月25日)まで行われ、投下した爆弾は合計355個、重量にして32.3トンに達した。
空襲部隊の戦闘詳報によると、爆撃した所として次の所が挙げられている。
大校飛行場、兵工廠、憲兵司令部、中央放送局、雨花台砲台、航空署、国民党の中央党部、南京市政府、南京駅、浦口駅、発電所など。
これを見れば、空爆作戦が国民政府(中国政府)の屈服を目的にしていたのが明白だ。
空爆された南京市民の被害については、拙著『南京難民区の百日』に詳しく書いた。
9月25日は129個の爆弾が投下されたが、上海戦(第二次・上海事変)から避難してきた難民の収容所も爆撃され、100人以上の死者が出た。
この日の空爆だけで、市民の死者は数百人、負傷者は数千人となった。
日本海軍の南京空爆は、1937年8月15日に始まったが、一般市民の犠牲が多発したのもあって、8月29日にアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアの5ヵ国代表は、日本政府に「爆撃停止の要求書」を出した。
しかし長谷川清・第3艦隊司令長官は、この要求に挑戦するように、次の通告文を9月19日付で発表した。
「我が海軍航空隊は、南京とその付近における支那軍ならびに軍事施設に対し、爆撃その他を行う。
(中略)第3艦隊長官は、友好国の官憲および国民(居留民)に対し、自発的に避難するよう強調する。」
日本のこの態度は、国際世論での日本の評判を一気に悪化させた。
アメリカでは、日本軍の都市爆撃が報じられると、日本軍への非難が高まった。
南京空爆の惨状は、新聞記者やカメラマンによって世界に報道された。
イギリスは国際連盟に、日本の行動を非難する決議案を出した。
この非難決議案は、9月28日の国連総会において、全会一致で採択された。
アメリカは国際連盟に加盟していなかったが、ルーズベルト大統領は10月5日に「隔離演説」を行った。
「宣戦布告もなく、一般市民が空爆で仮借なく殺される、戦慄すべき状態が現出している。
このような好戦的な傾向が、他国に蔓延する恐れがある。
彼ら(日本)は、共同行動によって隔離されるべきである。」
アメリカ政府は、日本のような侵略行為が蔓延するのを防ぐため、隔離(経済封鎖)をすべきと主張したのである。
この隔離演説の翌日(10月6日)には、アメリカのハル国務長官が「日本の行動は『中国に関する9ヵ国条約』と『ケロッグ不戦条約』に違反する」と声明を出した。
日本の広田弘毅・外相は、同9日に「日本帝国の行動はいかなる条約にも違反していない。抗日を行い武力で日本の権益を除去しようとする支那政府こそ、不戦条約の精神に背く」との声明を出した。
中国政府(国民政府)は、「日本の侵略行為は『中国に関する9ヵ国条約』に違反する」と、国際連盟に提訴した。
この結果、国際連盟は日中戦争を解決すべきとの勧告書を出し、11月3日からブリュッセルで9ヵ国会議が行われる事になった。
当時、日本は海外との貿易において、アメリカに大きく依存していた。
日本の国際貿易で、アメリカは輸入の33.6%、輸出の20.1%を占めていた。
翌38年度の数字では、日本の輸入に占めるアメリカの比率は、石油は75.2%、鉄は49.1%、機械は53.6%に達している。
この圧倒的な対米依存のため、日本政府はアメリカが経済制裁に出るのを恐れていた。
ブリュッセルでの9ヵ国会議に対し、日本政府は参加を拒否したが、ドイツに日中和平の工作をしてくれるよう頼んだ。
当時ドイツは、アメリカ・日本に次いで中国の外国貿易で第3位を占めており、武器輸出などで中国を軍事支援していた。
ドイツとしては、対ソ連の防共戦略から見て、日中が戦争で消耗し合うのはマイナスであった。
そこでドイツ政府の意向をうけた駐華ドイツ大使のトラウトマンは、日中和平の工作に乗り出した。
これは『トラウトマン和平工作』と呼ばれている。
しかし中国政府の蒋介石は、ブリュッセル会議で対日制裁が決まるのを期待しており、和平交渉に応じなかった。
1937年11月3日から開催されたブリュッセル会議は、平和的な手段で戦争を止めようとした会議だった。
しかし当時の国際条約や国際法には、侵略国に対する制裁の規定や、制裁を執行する国際機関の定めが無かった。
しかもこの段階では、米英仏の列強国に、対日戦争のリスクを冒してまで制裁に動く決意はなかった。
結局、ブリュッセル会議は、日本の国際法違反を非難する宣言を採択したものの、具体的な制裁は決めずに、11月24日に閉会した。
ブリュッセル会議で対日制裁が決まらないのを見た日本政府は、11月20日に「大本営」を設置した。
大本営とは、軍の最高司令官である天皇が率いる、「天皇の総司令部」という意味で、戦時における最高統帥機関である。
大本営の会議には、天皇と、陸軍参謀本部、陸軍省、海軍軍令部、海軍省の首脳が出席した。
大本営は、日清戦争と日露戦争の時に設けられており、なし崩し的に拡大してきた日中戦争においても、ついに設けられた。
こうして裕仁(昭和天皇)は、大本営に出席し、作戦指導に直接関与するようになった。
イタリアは37年11月6日(ブリュッセル会議の最中)に、日独防共協定に参加し、『日独伊防共協定」となった。
(※日独防共協定は36年11月に成立)
さらにイタリアは、11月29日に満州国を承認し、12月11日には国際連盟から脱退した。
トラウトマン和平工作は、成果なく消え去った。
(2020年8月8日に作成)