タイトル第二次・上海事変

(『日中戦争全史・上巻』笠原十九司著から抜粋)

上海で日本海軍が大山事件を起こすと、その数日後の1937年8月13日から、日本軍と中国軍が上海で戦闘を始めた。(※これが第二次・上海事変の始まりである)

すると8月15日に日本の近衛文麿・内閣は『暴支膺懲の声明』を出し、同日に日本陸軍は「上海派遣軍の編組」を発表した。

「編組」としたのは、この派遣軍が一時的な派兵であり、純粋な作戦軍ではないと陸軍が考えたからだ。

「編制」という正式用語を避けたのは、陸軍・参謀本部が上海への戦争拡大を望んでいなかった事の表れである。

(※海軍の要請で、陸軍は上海に派兵した)

一時的な派兵と考えたため、「上海派遣軍」には戦力や規律で劣る予備役・後備役の兵を多く召集した。

当時に陸軍・参謀本部の作戦部長だった石原莞爾は、「今次の上海出兵は、海軍が陸軍を引きずって行ったものと言って差し支えない。私は出兵させたくなかったが、海軍と協定があった」と後に回想している。

盧溝橋事件の直後の1937年7月11日に、陸軍・参謀本部と海軍・軍令部は、「日本帝国の居留民の保護を要する場合は、青島および上海付近に限定して、陸海軍は協同してこれに当たる」という、『北支作戦に関する陸海協定』を結んでいた。

上海派遣軍の司令官に任命されたのは、59歳で予備役になっていた松井石根・大将だった。

松井石根は、陸軍士官学校を2番目の成績で卒業し、陸軍大学校は首席で卒業したが、中風を患って早くに現役を退いていた。

ところが日中戦争の本格化で、陸軍には現役大将が不足し、さらに前年の二・二六事件の後の「粛軍」の影響で、荒木貞夫・大将や真崎甚三郎・大将らは干されていた。

だから予備役の松井石根が起用されたのだ。

松井石根を、ただ陸軍大将だという理由で司令官にした事は、日本軍が年功序列の官僚組織だった事の証左である。

上海派遣軍に与えられた任務は、「海軍と協力して上海付近の敵を掃滅し、上海ならびに北方地区の要線を占領しろ」だった。

だが松井石根は、1937年8月18日の参謀本部・首脳との会合で、こう述べた。

「国民政府(中国政府)が存在する限り、問題は解決しない。

南京(国民政府の首都)を目標にして、このさい断固として敢行すべし。

南京を攻略すれば(蒋介石は)下野すべし。」

松井石根の考えは、参謀本部の武藤章らと同じく、『中国一撃論』(強大な一撃を加えれば、すぐに中国は屈服するという見方)に立脚していた。

これに対し石原莞爾らは、懸念を伝えつつも、命令違反をしそうな石根の態度を注意しなかった。

一方、国民政府を率いる蒋介石は、上海に中国軍の精鋭のほとんどを投入した。

このため日本の上海派遣軍は、8月23日から中国軍との戦闘を始めたが、戦闘は長期化した。

上海戦の苦戦は、『中国一撃論』の誤りを早くも露呈した。

上海への戦線拡大に反対だった石原莞爾は、裕仁(昭和天皇)が戦後になって『昭和天皇独白録』で「私は盛んに上海への兵力増加を督促したが、石原はやはりソ連を怖れて満足な兵を送らぬ」と語っているように、増派を認めなかった。

この石原莞爾に対し、同じ参謀本部にいる武藤章・作戦課長らは、莞爾の反対を押し切って、9月7日に台湾と華北(北支)から部隊を送ることを決定させた。

この増派は、『昭和天皇独白録』にあるように、裕仁の指導も強く働いたと思われる。

増派を機に、陸軍・参謀本部の作戦の重点は、華北から上海に移行した。

反対をしていた石原莞爾は、更迭される形で関東軍・参謀副長に転出となった。(9月28日に)

莞爾の後任は、戦線拡大派の下村定が任命された。

『第二次・上海事変』(上海での日中の戦争)が始まると、海外からの中国への物資援助を、日本軍は止めようとした。

日本海軍の軍令部は8月24日に、「中国船舶に対し、揚子江以南の中国海湾を封鎖しろ」と第3艦隊に命じた。

第3艦隊の長谷川清・司令長官は、翌25日に「封鎖宣言」を発して、封鎖作戦を開始した。

9月5日には第2艦隊が加わり、海州湾の以北の中国沿岸も封鎖した。

10月20日には第4艦隊が新たに編成され、第3艦隊と合わせて「支那方面艦隊」となり、封鎖海域をさらに拡げた。

11月20日に大本営が日本政府に設置され、『帝国海軍の戦時編制』が実施されると、第2艦隊は内地に帰還し、支那方面艦隊が中国の全沿岸の封鎖を行うことになった。

この海上封鎖により、中国の対外貿易は激減し、中国政府の最大の財源であった関税収入が激減した。

中国政府の財政は逼迫し、国民生活も苦しくなった。

イギリス領の香港だけが、中国に開放された主な航路となった。

米英などが物資を中国に輸出することについて、日本はそのルートを「援蒋ルート」(蒋介石を援助するルート)と呼んで、封鎖と攻撃の軍事目標にした。

上海戦は(第二次・上海事変は)激戦となり、10月末になっても勝敗は決しなかった。

陸軍・参謀本部の武藤章・作戦課長は、杭州湾に新手の軍を上陸させて、背後から上海の中国軍を攻撃する作戦を考案した。

その結果、杭州湾に向かう第10軍が編成され、さらに華北から第16師団を上海に送ることになった。

第10軍は11月5日に杭州湾に上陸したが、背後を衝かれた中国軍は動揺し、13日に撤退と潰走が始まった。

11月中旬に、日本軍は上海の全域を制圧した。

こうして第二次・上海事変は、日本の勝利で終わった。

3ヵ月に及んだ上海での戦争で、中国は70万の兵力を投入し、戦死者は25万人という膨大なものとなった。

日本は場当たり的な増派を9回にわたって行い、最終的に19万の兵力をつぎ込み、戦傷者は4万3672人(戦死者は9115人)となった。

(2020年8月4~8日に作成)


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