(『馬占山と満州』翻訳・陳志山、編訳・エイジ出版から抜粋)
綏遠は、元は内蒙古の一部で、1914年に綏遠特別区となった。
そして1928年に「綏遠省」が設置された。
ここは人種的には、満・蒙・漢の民族が雑居し、昔から軍閥や馬賊がいた。
1931年には傅作義が綏遠省・主席だったが、彼は閻錫山の部下である。
閻錫山は、傅作義を信じられず、自らの直系である趙承綬と王靖国を派遣し駐屯させ、傅作義を監視した。
1933年に日本の関東軍は、蒙古の徳王を買収して、綏遠省へ攻める準備を進めた。
傅作義は、蔣介石と閻錫山に救援を要請した。
ところが蔣介石は、綏遠のような僻地は失ってもよいと考え、紅軍(中国共産党軍)との戦争を続けた。
また閻錫山も、自らの基盤である山西地域から動かなかった。
1935年に日本軍は、徳王らと共に綏遠省に侵攻してきた。
徳王は、蘇尼特右旗の王子で、満州事変後は日本軍と結びついていた。
徳王は、長春で日本軍の板垣征四郎や田中隆吉らと密談した結果、10万元のカネと5千丁の銃をもらって、蒙古帝国の建国に動いていた。
徳王は馬賊の李守信と結託し、1936年5月に「内蒙古政府」を設立した。
徳王が総司令、李守信が副総司令となり、日本軍の幹部が顧問となって、軍政を敷いた。
36年11月23日と24日に、百霊廟の戦い(綏遠事件)で、傅作義軍が徳王と李守信の軍に大勝した。
1937年7月に盧溝橋事件を発端にして、日中の全面戦争が始まると、徳王らは再び日本軍から援助を受けて、暴れ始めた。
8月21日に国民党政府の蔣介石は、馬占山を挺進軍司令と東北四省招撫事宜に任命した。
そして綏遠省の大同に赴任するよう指令した。
8月24日に馬占山は大同に着任した。
日本軍は、徳王・李守信・王英らと協同して、チャハル省と綏遠省を侵略した。
37年8月29日に張家口が占領され、9月30日に大同の攻撃が始まり、兵力がそろう前に日本軍が攻めてきたため、馬占山は豊鎮に撤退した。
この時、占山の指揮下にいた李大超は、元は傅作義の配下だったが、日本軍と戦わずに逃亡してしまった。
馬占山は傅作義と協力して、抗日戦を行った。
占山軍は善戦を続けたが、10月17日に五原鎮へ敗退した。
五原鎮は、内蒙古のパインナオルの東部にあり、古代の五原郡である。包頭・蘭州鉄道がここを通っていた。
盧溝橋事件の後、日本軍は蒙古族の王公や貴族の買収作戦を行い、多数の者が買収された。
日本軍は、徳王らの後ろ盾になって、大蒙古帝国を建国しようとした。
馬占山はイクチャオに1937年12月初めに進駐し、東勝県に到着した。
12月16日から日本に買収された蒙古軍と戦い、18日には康王らを捕虜にした。
その後に占山は、黄河に沿って陰山山脈を転戦していった。
1938年1月はじめに日本軍は、寧夏地域に「大回帝国」の樹立を計画した。
特務機関の内田永四郎は、トラックとラクダに武器と軍服を積んで、蒙古人の章文軒を訪ねて買収しようとした。
同年3月に馬占山は、日本軍と戦った。
また占山は、国民党中央の命令により、捕らえている康王を西安に送った。
4月1日に占山軍は黄河を渡って進軍し、10日の夜に平綏鉄道の察素斉駅を襲撃して、百数十の敵兵を殲滅し、大量の交通資材などを焼き払った。
4月15日に馬占山軍は、敵の本拠地・張北に接近した。
ここで日本軍・蒙古軍と7日間の死闘となった。
最終的に包囲された占山軍は敗れて、劉桂五らが戦死した。
占山らは黄河を渡って逃げ、哈拉寨(ハラサイ)に駐屯して、蔣介石の命令で胡宗南の指揮下に入った。
馬占山軍は死傷者が多く、占山は蔣介石のいる重慶に報告と協議のため行く事にした。
5月中旬に占山は重慶に到着したが、当時の重慶は毎日のように日本軍の戦闘機に爆撃されていて、空襲警報が鳴りっぱなしだった。
だが重慶では、国民党の官員は毎日、売春街に遊び、酒色にふけって抗日の気持ちがない。占山は失望した。
7月中旬に馬占山は西安に行き、胡宗南と兵器の補充について協議した。
そして、8月下旬には中国共産党の根拠地になっている延安に立ち寄った。
占山は歓迎され、毛沢東とも会談した。
10月に哈拉寨に戻った馬占山は、軍の再編に着手した。
だが蔣介石は、相変わらず占山軍を雑草のように扱い、兵器などの補給を満足に行わなかった。
1938年6月に蔣介石の国民党政府が行った「花園口事件」では、黄河の洪水で12万人が行方不明になるなど、甚大な被害が出た。
その後に国民党政府は、雑軍扱いの馬占山軍に、黄河の左岸・胡四太行から右岸・馬柵間地区までの防御を命じた。
1940年に馬占山は、黒竜江省・主席に任命された。
しかし哈拉寨に駐屯し続け、45年8月の終戦までめぼしい戦果は無かった。
(2021年6月19日に作成)