(『男装の麗人・川島芳子伝』上坂冬子著から抜粋)
多田駿・大佐の配下に入った川島芳子は、1933年2月に、軍服に身をかためて「安国軍」(定国軍ともいう)の司令官として、「熱河作戦」に従事した。
1940年に『動乱の蔭に、私の半生記』という、川島芳子の本が出ている。
これは表紙こそ「川島芳子著」となっているが、冒頭に代筆者の伊賀上茂が名を出している。
この本から、安国軍司令に就任した経緯を要約する。
ある日、かつて張作霖の軍団長・張宗昌の下で参謀をつとめた方永昌が、「芳子を総司令として安国軍を組織し、日本軍の熱河作戦に参加したい」と、芳子に申し出た。
張宗昌は、1932年に済南駅で暗殺されていたが、宗昌は芳子の兄である憲開を誤って射殺しており、方永昌としては上司の負債を軽くする意味もあったようだ。
芳子は申し出を受け入れ、ここで初めて「金璧輝」と名乗った。
その血盟式は33年2月に奉天のヤマトホテルで行われ、張宗昌の部下だった者が20人ほど集まった。
こうして発足した金璧輝・総司令、方永昌・副司令の安国軍は、熱河作戦の決死隊として世に広まった。
日本軍(関東軍)はすかさずこれを利用し、熱河作戦への参加を許可して、清王朝の王女が率いる義勇軍と宣伝して、日本軍を奮起させるのに役立てた。
熱河省は、奉天省と華北省の間に位置し、満蒙の蒙に属する地域であったが、満州国・東3省に加えて東4省に数えられる重要地だった。
ここの特産品の阿片は、財源として注目されていた。
関東軍は1933年2月17日に、「熱河省を満州国の領域にし、建国の基礎を確立する」として、熱河作戦(熱河省への侵攻)を始めた。
迎え撃つ熱河省は、湯玉麟・省長が張学良と結んで、反満州国を鮮明にしていた。
33年2月22日の朝日新聞には、「男装の麗人・川島芳子嬢、熱河自警団の総司令に推さる、雄々しくも共匪の討伐の陣頭に」という記事が載っている。
記事にある司令官姿の芳子の写真は、各方面で引用された。
だが実際には、芳子は第一線に出向いてなかったらしい。
自身が婦人公論で発表した手記において、「熱河省を駆け廻ったのですが、僕が働いた以上の何十倍かの宣伝が行われ、全く面はゆい次第です」と述べている。
満州族の出身である芳子の参戦は、関東軍にとって格好のプロパガンダになった。
芳子は、第一次・上海事変に続けて、ここでも関東軍に踊らされたのだ。
芳子の兄である憲立は、こう語る。
「妹の恥をさらすようですが、この頃に、芳子が方永昌と同衾しているところに、私は出会っています。」
川島芳子の活動は、実体よりも増幅されていた場合が多く、ホロンバイル事件もそうである。
1932年にホロンバイルの蘇炳文は、日本人居留民の数百名を監禁し、10月1日にハイラルで独立宣言して、東北民衆救国軍を名乗った。
憲立によると、事の起こりはチチハル市内にあった蘇炳文の邸宅を、日本軍の松木直亮・中将が強制的に宿舎として接収したためという。
日本側は和平工作に入り、炳文の妻の姉が憲立と知り合いのため、多田駿・大佐は憲立と芳子に依頼した。
芳子はパラシュート降下でホロンバイルに行く計画を立て、関東軍の小磯国昭および多田駿の了解をとって訓練に入った。
これが伝わって、「芳子は単身パラシュートで敵地に乗り込んだ」という武勇伝が作られたが、実際には持病の神経病が出て行かなかった。
憲立によると、率直に「和平工作は難しい」と多田駿に伝えたが、駿はその旨を本部に打電した後、「芳坊、寝よう」と言って芳子と共に憲立邸の寝室に入った。
芳子が、日本に協力して蒋介石の国民政府と戦ったのは、清王朝の復辟が目的だった。
この期に及んでなお復辟を目指し、それで農民が幸福になると夢見ていた彼女は、思慮の浅さが批判を免れない。
この頃のものと思われる、芳子の書簡が残っている。
「近いうちに第一線に行きます。パリパリ死ねますね。
こんな解らん世の中に生きたところで何になろう。死して天国で日満を指揮します。」
残念ながら熱河作戦で宣伝役となった川島芳子は、やがて日本の軍部にとって目障りな存在となった。
芳子は日本に送り返されて、しばらく多田駿の留守宅に居住したらしく、一種の軟禁状態に置かれたようだ。
(2020年8月15日に作成)