(『男装の麗人・川島芳子伝』上坂冬子著から抜粋)
関東軍の熱河作戦で宣伝役として使われ、やがて目障りに思われて日本に送り返された川島芳子。
日本に戻った芳子は、まもなく「昭和の天一坊」と騒がれた相場師のイトウ・ハンニ(伊東阪二)と出会い、付き合い始めた。
その一方では、芳子を描いた小説『男装の麗人』はベストセラーになり、芳子は注目を集めた。
芳子は有名になった気運を利用して、麻布にあった満州国公使館に陣取り、婦人公論から手記を発表した。
そして公使館の自動車で銀座・赤坂・人形町などのダンスホールを回り、ダンスを通じて伊東阪二と知り合ったといわれている。
1933年に川島芳子が作詞、杉山長谷夫が作曲、東海林太郎が歌手で、「キャラバンの鈴」という曲がキングレコードから発売された。
村松梢風は戦後にオール讀物に発表したエッセイで、このレコード発売を次のように記している。
「芳子の行くところは黒山の人だかりになった。
ラジオ講演で彼女が蒙古の歌を2つ唄ったところ、それを聴いたコロムビヤ蓄音器会社から、ぜひレコードにしたいと私の所へ頼んできた。」
さて、芳子と恋仲になった伊東阪二であるが、父も相場師で、阪二は上京して相場師となった。
1929年にニューヨークで株価が大暴落して、世界的な大恐慌が始まった時、日本では30年1月に浜口雄幸・内閣が金輸出の解禁をして不興脱出を図った。
これが逆効果になり、日本の株価は暴落したが、阪二は安値に乗じて買いあさった。
このバクチは当たり、150万円(現在の15億円ほど)を手にしたという。
31年9月に満州事変が起きると、株価は再び大暴落した。
この時はイギリスが金解禁に踏み切って、さらに市場は混乱したが、阪二は再び買いあさった。
31年12月11日に、金解禁を続けてきた若槻礼次郎・内閣が総辞職するや、株価は一挙に暴騰した。
ここで阪二は300万円ほど儲けたという。
31年12月15日に阪二は、陸軍省に1万円を寄付し、34歳の独身青年の善行として新聞に載った。
32年に入ると彼は、雑誌「日本国民」を発刊し、執筆者として北原白秋、市川房枝、岸田国士らを抱えた。
そして徳富蘇峰ゆかりの「国民新聞」を買収して社長になると、「中国大陸を手中に収めてアジアを統一し、西洋に対抗する」という論を説いた。
作家の村松梢風らは、伊東阪二と川島芳子の組み合わせを「似合いの夫婦だ」と評した。
だが芳子の養父である川島浪速は激怒したと伝えられている。
結局のところ、阪二は日本国民社からわずか5ヵ月で追われ、国民新聞も3ヵ月で手放した。
いずれも経営難であった。
阪二と芳子の住居は、東京の九段にあった。
副島昭子は語る。
「九段のお宅はよく覚えています。
芳子さんの寝室は緑の絨毯に真っ赤なベッドで、入口に『司令室』と書いてありました。
月見の宴などを開いた時には、女優の水谷八重子、栗島すみ子らを招いて賑やかなものでした。
阪二さんとは会いませんが、一緒に暮らしているとの噂で、家族はほかに千鶴子さん、ピーター、それに廉子さんも時々見かけました。」
千鶴子とは、上海で芳子と知り合って身辺の世話をしていた若い女性である。
ピーターについては川島廉子はこう言う。
「当時7~8歳で、芳子は蘇炳文の遺児だと言ってました。」
芳子の養父である川島浪速は、故郷の長野県・松本に逼塞し、もはや日本に留学中の旧清朝の王子や王女の面倒を見る役のみであったと思われる。
1935年1月7日に、そんな養父を哀れんだのか、あるいは自身の宣伝のためか、芳子は浪速の古希の祝いを大々的に行った。
当日は百十余名が集まり、能狂言、清元、松本民謡などに興じた。
祝賀式の最後には、松本第50歩兵連隊長・田畑八十吉・少将の音頭で「大日本帝国万歳」を、元満蒙義勇軍・入江種矩の音頭で「満州国万歳」を三唱した。
断髪の芳子は島田のカツラをかぶり、廉子と共に振袖姿で出席した。
信濃毎日新聞は、この祝賀式を模様を伝えているが、こうある。
「芳子に対しては、引き連れてきた20数名の猛者があくまで総司令として仕え、容貌怪異な男たちが日本娘に平身低頭する図は実に愉快だった。
芳子に随行した部下の1人は、『司令の今後の動向ですが、天津に王公館という邸宅を構えて秘策を練っているところです』と言う。」
芳子は、その場で自身の宣伝もしたのである。
祝賀式の出資者と思われる伊東阪二は、この年に「投資家に対して47件の詐欺を働いた」として新聞に登場した。
阪二はたびたび詐欺行為をし、1948年に大阪府警に検挙されたのを最後に姿を消した。
川島浪速の古希祝い辺りを境に、阪二と芳子は疎遠になったようだ。
林逸郎は『日本週報』昭和34年8月増刊号で、1935年の春ごろに愛国党の岩田愛之助や天行会の頭山秀三らと国技館で相撲見物した時のことに触れている。
その日、マス席に振袖・日本髪に牡丹花を描いた扇という姿で芳子が現われ、岩田愛之助に思いっきり甘えたため、館内の注目が集まったとのことだ。
陸軍将校、相場師、右翼の壮士と、芳子の愛人は多彩だが、兄の憲立が「芳子の取り巻きは低俗すぎた」と言うのも頷ける。
満州国の皇帝となった溥儀は、1935年4月6日に来日した。
その日、東京駅で裕仁(昭和天皇)が出迎えたが、駅前には奉迎門が立ち、市民は満州国旗を手に迎えた。
1週間後の4月13日に、溥儀の侍衛処長である工藤忠が、溥儀の特使として九段の川島芳子邸を訪れた。
川島浪速はかつての仲間である入江種矩らとこれを迎え、溥儀からは様々なものが下賜されたという。
特使が来た日、芳子は軍服に断髪で案内役をし、その写真が残っている。
伝記『川島浪速翁』が発刊されたのは、翌36年の3月である。
また37年4月には、嵯峨実勝・侯爵の娘が、溥儀の弟である溥傑の妃となった。
37年の7月7日に盧溝橋から、日中戦争の火蓋が切られた。
この時期の芳子は、混迷していたに違いない。
清朝の復辟は絶望となり、伊東阪二との生活も終わった。
病気療養と称して、芳子はときどき松本を訪ねている。
この頃から芳子は、盛んに自らの股に注射を始めた。
麻薬中毒との噂もある。
芳子の秘書だった小方八郎はこう語る。
「麻薬ではなく市販のフスカミンという注射薬です。
私が薬局に買いに行ったから間違いありません。」
芳子が鎮痛剤を用いねばならなかった原因は、次の2つが考えられる。
1つは、若い頃にピストル自殺を図った時の後遺症だ。
もう1つは、芳子が手記に書いているが、満州事変の際に洮南で張海鵬と交戦して弾丸にたおれた時の重傷だ。
1937年3月23日に芳子は、松本市の公会堂で演説した。
その内容は信濃毎日新聞が伝えている。
まず小里頼永・市長の挨拶があり、田畑八十吉・少将が芳子を紹介した後、芳子は壇上に運ばれた。
芳子は「傷痍のために廃人となりました」と述べている。
その新聞記事を読むと、演説内容は日本人への痛烈な批判が込められている。
芳子は「支那や満州にいる日本人は、内地では相手にされぬあぶれ者が多く、濡れ手に粟の欲得ずくで行動し、支那人に恐れられ嫌われている」と話した。
さらに「日支の親善は外交官や軍人ではなく、民衆レベルの握手でなければならぬ」とした。
最後は「日本の対支外交は、肺病患者に胃の薬を投与するような、方向違いである」と指摘した。
記事の見出しは、『男装の麗人・悲願の叫び、親善の二字棄てよ。肺病に胃薬の対支策』である。
衆院議長もつとめた福永健司は、昭和59年5月9日の日経新聞の「私の履歴書」で、松本で療養中の芳子と話した時を書いている。
当時の芳子は、「胸にピストルの弾をぶち込まれ、その摘出手術で来日した」と噂されていたという。
芳子は健司に、激しい言葉で日本の大陸政策を批判し、目に涙を浮かべてこう語った。
「このままでは日本の大陸政策は失敗する。
もっと中国人と日本人が理解し合える政策を進めないと、両国民がだめになる。
土肥原賢二のように、馬に乗って市内の巡視の際に、中国人に土下座させる事をしてはならない。」
「あの時代に軍部を恐れず、大陸政策を断固批判する勇気と情熱は見上げたものだ」と、健司は結んでいる。
1937年6月11日の毎日新聞・南信版には、「傷を養ふ男装の川島嬢」として、善光寺温泉での芳子が報じられている。
「止宿先の温泉ホテルに芳子を訪問すると、小さな注射器を足部に使いブドウ糖の注射をしているところ」とあり、芳子は「1ヵ月したら再び満州へ行き、部下の兵士へボーナスを支給してくる」と述べた。
4ヵ月後の毎夕新聞には、芳子が部下にボーナスならぬ仕事場を与え、天津に「東興楼」という中華料理店を開業したとある。
かつて芳子の軍で働いた部下たちに職場を与えるためで、一癖ありげな面構えのボーイが揃っていたという。
東興楼は、日本兵を客とし、入浴の世話まで行った。
芳子は男装を止め、地味な着物姿でまめまめしく立ち働いていた。
取材の対し芳子は「私は24歳」と語ったが、実年齢は30だった。
東興楼を取り仕切りながらも、芳子は来日を続けていた。
今度の足場は福岡である。
福岡には柴田長男という名物刑事がいて、西日本新聞が聞き書きを連載したが、その中に1938年ごろに川島芳子にきりきり舞いさせられた話がある。
その話を要約すると次のとおり。
「大陸進攻を目指す日本軍閥のアイドルとして、体よく宣撫工作に利用された面もある川島芳子は、福岡市に長期滞在することになった。
赤松小寅・知事は、彼女を国賓なみに扱うべく身辺警護の特例を発し、柴田長男・刑事も警備の一員となった。
芳子は、静養とはいうものの、一流ホテル、九大病院、市内の病院を転々とし、東中洲の料亭で遊び回っていた。
やがて芳子は、ホテルの支配人が不当な金額を請求したとか、九大病院で薬剤師が薬の水増し請求をしたとか、市内の病院で院長にキスされたとか、言い立てた。
柴田長男はいちいち調べたが、すべて事実無根であった。
ある日、芳子はホテルで、ダイヤをちりばめた時計を盗まれたと申し出た。
長男は芳子の身辺を洗い、彼女が通う歯科医院を訪れた。
すると歯科医は封筒を預かっており、そこにダイヤ入りの時計が入っていると分かった。
芳子に事情聴取したところ、「同じ時計を2つ持っており、1個は歯科医に預けたが、もう1個は盗まれた」と言い張った。
そして数日後、芳子から長男に手紙が届き、そこには『時計は歯科医に預けた1個のみだ。いろいろ騒がせて申し訳なかった』とあった。」
芳子の秘書をしていた小方八郎は言う。
「あの人は悪気はないんですが、人を騒がせるのが好きだったんです。
淋しさを紛らわすためだったのか、理解に苦しみます。」
柴田長男は、こう解釈している。
「芳子は、日本そのものに反感を抱いていたんじゃないでしょうか。
日本の官憲を愚弄して、嫌がらせ目的にさえ見受けられました。」
この頃の川島芳子は、福岡、天津、北京を行き来していた。
芳子の自伝と銘打った『動乱の蔭に』は、当時をこう述べている。
「事変(日中戦争)が始まると、天津にある私たちの店・東興楼は、日本兵の店になった。
店の中庭にはジンギスカン鍋が据えられ、そこで立ち食いするのが天津名物の1つになっていた。
店員は、かつて満蒙であばれ廻り、熱河討伐戦で日本軍と共に働いた、国定軍(安国軍)の勇士たちだった。
だから日本兵の気心をよく知っていた。
店内には軍国調が満ちあふれていた。」
東興楼は、多田駿の協力の下に、馮玉祥の軍団長をしていた石友三の出資で開店したという説が強い。
1932年に多田駿の配下となって熱河作戦に加わった芳子は、失業中のかつての部下たちを店員にして、日本兵を相手に料理店をしたのだ。
1939年1月、一部の報道機関が芳子の死を報じた。
1月4日付の大阪毎日新聞は、こう報じている。
「川島芳子は、天津のフランス租界で襲撃され、頭部に重傷を負い、日本租界の福島街共立病院に入院中である。
フランス租界のマッケンジー病院に王夫人を見舞った芳子は、侵入してきた暴漢に王夫人と共に手斧でめちゃくちゃに殴られ、夫人は即死、芳子は重傷した。
芳子は現在、日本租界・松島街に支那料理店の東興楼を経営しているが、入院手続きに変名を用い、事件の内容を一切語らず面会謝絶している。」
この事件の粗筋を、『動乱の蔭に』から拾い出すと、こうである。
1938年12月31日に、かつて芳子の側近として働いた蘇炳文の姉・王夫人が危篤だと、王夫人の2人の娘が芳子に伝えてきた。
王夫人は抗日テロ団に襲われてフランス租界のマッケンジー病院に入院していたが、容態が急変したという。
芳子は病院に駆け付けたが、その夜11時に芳子が病人の枕元にいた時、3人の支那人が手斧を持って乱入した。
王夫人は前額部を打ち砕かれて死亡し、芳子は男たちに立ち向かったが後頭部に一撃を食らった。
王夫人はテロ団と面識があり、テロ団の内幕に通じていたため口封じの殺害で、芳子は巻き添えになった。
芳子は2ヵ月余りを病院ですごし、奇蹟的に回復した。
この2ヵ月余りの間に、芳子は家賃を滞納したという理由で、東興楼から立ち退きを命じられた。
毎日新聞が2月18日付で報じている。
「天津の川島芳子さん経営の東興楼は、昨春に家主から一切の債権を譲られた一群組から立ち退きを要求され、注目を引いていた。
家賃滞納は数ヶ月に上り、近く家屋の明け渡しを強制執行されることになった。」
かつて芳子の愛人だった田中隆吉は、著書にこう書いている。
「芳子は天津の中国料理店に失敗して、北京にいる多田駿・北支方面軍司令官を頼って、北京に移った。
多田の庇護の下で生活しながらも、日本の将校を誘惑して軍の物資を横流しし、将校が停職処分になった。」
(2020年8月25~27日に作成)