タイトル満州国の執政に旧清朝皇帝の溥儀が就く
日満議定書

(『満州帝国史』太田尚樹著から抜粋)

清朝の滅亡で北京を追われた旧皇帝の溥儀は、日本の中華民国公使・芳澤謙吉の手引きで、天津の日本租界に匿われた。

その1年前の関東大震災の折、まだ紫禁城にいた溥儀は、30万ドル相当の貴金属を見舞いとして、日本政府に寄贈した。

この寄贈も、日本が溥儀を保護するのに結びついたと見られている。

天津での溥儀の生活は、日本警察の24時間監視下にあり、自由は無かった。

当然ながら、溥儀が日本に匿われている事は、蒋介石らは知っていた。

「満州国が建国されたら、日本は溥儀を担ぎ出して皇帝に就けるに違いない」と読んだ介石は、清朝一族を保護する優待条件を提示して、溥儀を引き止めようと密書を送った。

しかし溥儀は、満州での清朝の復辟に賭けたようだ。

天津総領事の吉田茂と、その後任の桑原主計は、「関東軍の甘い誘いには乗らないで下さい」と溥儀に忠告していた。

特に軍人嫌いの茂は、関東軍の参謀たちを「あの馬糞ども」と罵倒していた。

もし日本が満州国を建国すれば、蒋介石は国際連盟に提訴する構えである。

その結果によっては、日中の全面戦争になる可能性もあった。

関東軍が1931年9月18日に柳条湖事件を起こし、満州事変(満州侵攻)をスタートさせると、関東軍の奉天特務機関長の土肥原賢二が、頻繁に溥儀の許を訪ねてきた。

賢二は「関東軍と日本が全力を挙げてお護りしますから、ぜひ満州へ」と誘った。

土肥原賢二の意を受けてきた甘粕正彦は、もっと具体的な話をした。

「はじめは執政という地位ですが、時機を見て皇帝に就いていただきます。執政の手当ては年に60万元、皇帝になれば80万元です。」

溥儀は31年9月下旬には、側近の劉驤業を、内田康哉・満鉄総裁や本庄繁・関東軍司令官の許に遣わし、自分の就く地位を確認した。

さらに翌10月には、自ら書いた手紙を、東京の南次郎・陸相と黒龍会の頭山満に送った。
その内容は不明だが、自らの決意表明と考えられる。

溥儀の弟・溥傑は、戦後になってから「満州国は、日本が大陸進出のため我々を利用し、我々が清朝復辟のために日本を利用して作った産物です」と語っている。

日本陸軍の中央では、溥儀の担ぎ出しを危ぶむ声も少なくなかった。

南次郎・陸相は、本庄繁・関東軍司令官に次の訓電をしている。

「溥儀が新政権を樹立すると、日本帝国の対列強国の策が極めて不利になる恐れがある。

しばらくは溥儀を政権問題に関係させないよう指導してほしい。」

関東軍でも、満州事変を起こした中心人物の1人である石原莞爾が、溥儀を担ぐのに反対した。

「これからの時代に帝政は時代錯誤だ。五族協和の精神になじまず、白系ロシア人、朝鮮人、満民族がついてきませんよ。」

しかし板垣征四郎はこう説いた。

「五族の共和制では、国際的な手続きが面倒だし、ぐずぐずしていると横槍が入りかねない。

手っ取り早く溥儀を元首にして親日政権をつくり、張学良ら反対勢力を吸収させるのが良い。

溥儀で上手く行かなかったら、共和制に変えればいい。」

これに石原莞爾は賛成して、「ここは小異を捨てて、大同を選びますか」となった。

こうして1931年10月に、溥儀とその妻・婉容を天津から満州に連れ出すことになった。

2人が同時に脱出するのは避け、まず溥儀を脱出させ、1週間後に婉容を連れ出す手筈になった。

落ち合う場所は、旅順にある川島芳子の実家・肅親王の邸宅であった。

溥儀の脱出を主導した甘粕正彦は、天津の白河から軍用艇で出発し、溥儀と共に旅順に向かった。

支那軍の警戒網をかい潜って白河を下る時は、万一の場合、軍用艇もろとも爆破する計画だったという。

1932年3月1日、いよいよ満州国を建国することになり、甘粕正彦の護衛で溥儀一行は旅順を発った。

途中で湯崗子温泉に立ち寄り、のちに「皇帝の密約」として有名になる『日満議定書』について、溥儀は説明を受けた。

板垣征四郎や石原莞爾らが作成した議定書の骨子は、次の3つであった。

① 満州国の治安維持と国防は、日本軍に委ねる

② 鉄道・港湾などの管理や新設は、日本に委ねる

③ 日本人を満州国の参議に任じ、中央と地方の官署に日本人を任用する

③の項では、「人事の選任・解任は、関東軍司令官の同意を必要とする」との但し書きがあった。

上の『日満議定書』の内容を見ると、すでに五族協和の思想は姿を消している。

関東軍の監視下にあるとも言える溥儀にとっては、議定書に署名するしかなかった。

「本庄・溥儀の協定」とも呼ばれるこの議定書は、日本の国権からすれば何の権限もない関東軍司令官の本庄繁が結んでおり、天皇の統帥権の干犯に当たる可能性があった。

1932年3月9日に、新京で盛大な満州国の建国式典が行われた。

新京は、長春の名を改めたもので、満州国の首都に定められた。

この式典では、本庄繁らは軍礼装で参加し、溥儀も中国の礼服ではなく軍服のような執政服だった。
これでは清朝復辟は遠い夢でしかない。

日本政府は満州国の建国に合わせて、官吏を送り込んだ。

商工省の官僚・椎名悦三郎も、満州国実業部・計画科長として送り込まれた。

(2020年9月23日、10月2日に作成)

(『馬占山と満州』翻訳・陳志山、編訳・エイジ出版から抜粋)

奉天特務機関の土肥原賢二は、関東軍の命令で1931年10月29日に天津に赴き、11月2日に日本租界にいる溥儀と会見した。

そして溥儀を天津から脱出させるために、11月8日に、買収した中国兵に中国人街を襲わせる「天津事件」を起こした。

溥儀の一行は、遼寧省の営口に着くと、いったん湯崗子温泉に入り、18日に旅順のヤマトホテルに移った。

関東軍は、満州国を建国するにあたり、まず奉天省・吉林省・黒竜江省に独立宣言を行わせて、3省の主席による政務委員会の推挙によって溥儀を「大総統」に迎えさせる事にした。

1932年2月6日に、張景恵(黒竜江省長)は馬占山(黒竜江省の軍長)を訪ねて、満州国の建国のための「巨頭会議」への参加を約束させた。

板垣征四郎は2月12日にハルビンに行き、張景恵と馬占山に会って、吉林省長の煕洽とも連絡して、政務委員会を発足させる事にした。

そして2月16~17日に奉天で、政務委員会を開くことになった。

2月15日に、煕洽、張景恵、板垣征四郎らは奉天に着き、16日に馬占山も着いた。

16日の午後3時40分に、煕洽(吉林省長)、張景恵(黒竜江省長)、馬占山、臧式毅(奉天省長)の4人は、関東軍司令部で本庄繫・関東軍司令官と会見した。

午後6時に夕食会がヤマトホテルで開かれ、ここには関東軍の幹部も加わった。

ヤマトホテルでの招宴は午後8時に終わり、その直後に張景恵邸に皆が移動して、満州国の建国会議が始まった。

会議には、板垣征四郎、趙欣伯(奉天市長)、通訳の中島比多吉も参加し、17日午前3時まで続けられた。

議題は、新国家の政体、元首、国旗などであったが、次のように決定した。


立憲共和制を採り、連省自治体とする


元首は執政と呼ぶ


東北行政委員会を組織し、委員長は張景恵が就く

委員には、黒竜江省長に任命される馬占山、臧式毅、煕洽の他に、熱河省主席の湯玉麟、蒙古代表の斉王(キムトシムベロ)、コロンバイル代表の凌公(凌陞)を加える


東北行政委員会は2月17日に発足し、17日か18日に各省は独立宣言を行う

そして上の予定通りに、3省は独立宣言を行った。

溥儀は3月6日に旅順を出発して、湯崗子温泉に再び入った。

そこに板垣征四郎が訪ねて来て、溥儀に1枚の文書を差し出し、花押を迫った。

その文書の日付は3月10日、つまり溥儀が執政に就任する翌日の形になっていた。

文書の内容は、次の3つなどであった。


関東軍が必要とする軍事施設の一切を、満州国が提供する


日本が満州の鉄道・港湾・航空路などを管理し、新しい鉄道の敷設をする


満州国政府の中央・地方の各官署に、関東軍が選任する日本人を勤務させる

3月9日に溥儀の就任式が行われた。

黒竜江省長に任命された馬占山は、すぐに満州国から離脱し、黒竜江省で抗日戦を始めた。

(2021年6月4日に作成)


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