タイトル第一次・上海事変

(『日中戦争全史・上巻』笠原十九司著から抜粋)

関東軍は、満州事変(満州侵略)を進めて満州国をつくったが、その際に国際社会の目を逸らすための陽動作戦を行った。

それが『第一次・上海事変』である。

関東軍参謀の板垣征四郎は、1931年10月初めに、上海・特務機関の田中隆吉に「上海でコトを起こして、列国の注意をそらしてほしい」と依頼した。

隆吉は、川島芳子(のちに東洋のマタハリと呼ばれた)と組んで、謀略の工作を進めた。

1932年1月18日に、日本人の僧侶ら5人が上海の共同租界のはずれで、数十人の中国人に襲われて、1人が死亡した。

これに対して2日後に日本人居留民30人が、武装して三友実業社を襲撃し、中国の官憲と衝突して双方に死傷者が出た。

この事件は、田中隆吉と川島芳子らが仕組んだ謀略であった。

日本政府と海軍は、この事件を見て、軍艦と海軍陸戦隊を増派し、中国側に陳謝や加害者処罰や慰謝料を要求した。

日本海軍は1930年から、上海に特別陸戦隊を常設していた。

中国側の呉鉄城・上海市長は、日本側の要求を全て承認した。

にも関わらず、32年1月28日の深夜に海軍陸戦隊は、上海の中国軍を襲撃した。

こうして『第一次・上海事変』が開始された。

上海にいる中国軍は、国民政府の中央軍ではなく、地方軍の第19路軍であった。

その抗日意識は強く、日本の海軍陸戦隊は苦戦した。

そこで日本海軍は、艦船と戦闘機を投入した。

意外な戦況に驚いた日本軍・中央(日本本国の司令部)は、上海派遣軍を編成して、3個師団の陸戦部隊を送り込んだ。

第19路軍は約3万人、国民政府・中央軍は1万人に対し、日本軍の投入は4万人に達した。

この戦争に国民政府の蒋介石が、満州と違って不抵抗の道を採らなかったのは、上海にはフランス租界や共同租界があり、「ここで戦争になれば列強国が対日批判を強める」と考えたからである。

さらに反蒋介石で連合して中国内戦をしたのが地方軍閥だったので、地方軍を日本軍と戦わせて弱体化させるという策略でもあった。

この戦争(第一次・上海事変)は、32年3月下旬から日中両国および英・米・仏・伊の4ヵ国による停戦会議が開かれ、5月5日に停戦協定が結ばれた。

日本軍は、死傷者3091人という犠牲を出して、上海から撤退した。

この戦争で列強国の目が上海に集中している間に、関東軍の板垣征四郎らは32年3月1日に『満州国の建国』を行った。

(2020年5月9日に作成)

(『馬占山と満州』翻訳・陳志山、編訳・エイジ出版から抜粋)

『第一次・上海事変』では、数万の上海市民が死傷し、50~60万人が家を焼かれて路頭に迷った。

全国に知られた商務印書館と東方図書館も全焼した。

(2021年6月5日に作成)


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