タイトル関東軍の侵略に対し、黒竜江省の馬占山が奮闘する

(『馬占山と満州』翻訳・陳志山、編訳・エイジ出版から抜粋)

1931年9月18日に日本の関東軍が柳条湖事件を起こし、侵略の軍事行動を始めると、中国の東北部(満州)を統治する張学良は不抵抗主義を採った。

中国軍が抵抗をしないので、関東軍は奉天や長春などを次々と占領していった。

9月21日に関東軍は、吉林省を攻撃したが、吉林省軍・参謀長で代理の省首席でもある煕洽は投降した。

吉林省・西部の洮南も、そこを守る張海鵬は無抵抗だった。

こうしてわずか1週間で、遼寧省と吉林省の大部分が関東軍に占領された。

関東軍は、続けて黒竜江省に向かったが、ここは事情が違った。

黒竜江省は北のはずれにあり、黒竜江(アムール川)をはさんで対岸はソビエトであり、軽はずみに行動すればソビエトが動き出す恐れがあった。

さらに黒竜江省には、関東軍の守備隊が駐留していなかった。

そこで関東軍は、黒竜江省のハルビン市で、工作員を使ってテロ活動をさせた。

日本領事館や朝鮮銀行に爆弾を投げ入れて、日本人居留民の保護を掲げて出兵する策略である。

この時、黒竜江省を任されていたのは、省長の万福麟だったが、彼は北京に居た。

だから万福麟の息子の万国賓が代行していたが、国賓は何の対策も立てられなかった。

関東軍は、「関東軍に投降した張海鵬が、黒竜江省の攻略を準備中」との噂を流した。

その結果、黒竜江省の省城であるチチハルから逃げ出す人が次々と出始めた。

万国賓は悩んだあげく、張海鵬の本心を掴むため、馬景桂を洮南に派遣した。

馬景桂は張海鵬と会見し、戻ってくると「黒竜江省を狙う野望あり」と報告した。

これを受けて万国賓は、北京にいる張学良と万福麟に対し、「解決策を提示してほしい」と打電した。

これに対する返電は、「張海鵬に日本軍に利用されたとの汚名を後世に残すことなきよう勧告せよ」だった。

そこで国賓は勧告したが、張海鵬の返事は「少し考えさせてほしい」だった。

10月初めに、張学良は張海鵬を安心させるため、「蒙辺督弁の職を委任する」と電報を打った。

海鵬は10月11日に、息子の張冠軍を黒竜江省に派遣して、感謝の意を伝えた。

だが海鵬の本心は、関東軍と手を結ぶことにあった。

張海鵬は、若い頃は札付きの無頼漢で、やがて馬賊になり、馬賊の頭目・馮麟閣と共に清政府に雇われた人である。

その後、中華民国が成立すると、軍人として出世していった。

張海鵬は、9月に洮南を関東軍に明け渡すと、9月末に関東軍との間に「2万丁の三八式銃を供給してもらい、銃弾も随時提供してもらう」との密約を結んだ。

さらに関東軍から、「黒竜江省を占領したら、お前を省長にする」とのお墨付きをもらった。

張海鵬が軍事力を強化するのを見た黒竜江省の軍政署は、大混乱に陥った。

これを見た軍署・参謀長の謝珂は、万国賓に対して「北京から有能な軍人を派遣してもらおう」と建言した。

国賓はこの要請をし、「適材がいなければ、馬占山と蘇炳文を推す」と伝えた。

これを受けて10月中旬に北京の張学良は、「馬占山を黒竜江省の主席および軍事総指揮、謝珂を副総指揮に任命する」と打電した。

しかし10月13日に、張海鵬の先鋒の徐景隆の軍が、北進中との報が入った。

これを知ると、万国賓らは財宝やカネを持って逃亡してしまった。

残された抗戦派の将兵と民衆は、馬占山の到来を待ち焦がれた。

馬占山はこれまで、黒竜江省・黒河地区の警備司令と、第三旅長だった。

それがいきなり省主席と軍事総指揮に任命されたのだ。

占山はただちに省城のあるチチハルに向かった。

10月20日にチチハルで、占山の就任式が行われた。

馬占山が就任直後に行った施策は、次のものだった。

①兵力の増強  ②省城の治安回復  ③景星方面の防衛  ④戦争に便乗した値上げの禁止  ⑤買いだめや投機の禁止  ⑥商民の自警団の結成  ⑦張海鵬の首に懸賞金。

1931年10月20日に、日本の駐チチハル領事館の林義秀・少佐は、馬占山に会って「関東軍司令官・本庄繫の要求」を伝えた。

それは、「馬占山が下野して張海鵬に省主席を譲る」という内容だったが、占山は拒否した。

これより少し前、徐景隆軍はチチハル攻撃に向かい、10月14日に馬占山軍と嫩江を隔てて対峙した。

翌15日に戦闘が始まり、徐景隆は戦死した。

同じ頃、張海鵬は自ら軍を率いて泰安鎮に進軍したが、黒竜江省の徐宝珍と朴炳珊の軍に敗れて、退却した。

だが張海鵬は懲りずに、日本軍から10万円を援助してもらい、盗賊・匪賊を集めて兵力を拡大した。

関東軍は、張海鵬が負けたのを見て、自ら出兵することにした。

10月26日に、鉄道を匪賊から守ることを口実に、二十九連隊を派遣した。

翌27日に、駐チチハル領事館・武官の林義秀・少佐らは、黒竜江省の政府を訪問し、「馬占山の下野と嫩江橋の修復」を要求した。

馬占山はこの要求を拒絶した。

すると駐チチハル領事の清水八百一は、「爆破された橋を修復する。それを中国側が妨害すれば、断固たる措置をとる」と省政府に通告した

11月2日に洮南を進発した関東軍は、嫩江橋に到着した。

清水八百一・領事と林義秀は、再び馬占山に会いに来て、次の3ヵ条を突き付けた。


嫩江橋を戦略上で使用しないこと


11月3日までに馬占山軍と張海鵬軍はそれぞれ、嫩江橋から10kmほど撤退すること


①と②を承認しなければ、武力をもって解決する

馬占山は軍事会議を開いて、関東軍に備えた。

11月3日の11時頃、関東軍の戦車・歩兵が、満鉄の労働者と共に、強引に嫩江橋の修復工事を始めた。

馬占山軍は武力衝突を避けて大興駅まで撤退したが、日本軍の飛行機は馬軍の陣地を空襲し、馬軍に9名の死傷者が出た。

11月3日の22時頃に、約100名の日本兵が嫩江橋を渡って、馬占山軍の陣地に猛射し、馬軍に7名の死傷者が出た。

嫩江橋は、洮昂鉄道が通る交通の要衝で、チチハルに進攻するには占領しなければならない。
関東軍がこの橋を狙う理由は、ここにあった。

11月4日に日本軍の爆撃機が攻撃を行い、大興駅を爆破して多数の死傷者を出した。

さらに日本兵の4千人が馬軍の陣地を攻撃した。

この後、嫩江橋をめぐる戦いが、半月にわたって行われた。

日本軍と張海鵬軍は、馬占山軍を攻撃したが、装備の劣る馬軍はよく戦った。

『濱江日報』は、当時こう報じている。

「11月4日から7日の嫩江橋戦で、日本兵は167人が死亡し、600余人が負傷した。張海鵬軍は700余人が死傷した。馬占山軍は2人の営長が戦死し、300余人が死傷した。日本軍機の爆撃により、死傷した民衆は数え切れない。」

馬占山は、南京の国民政府に救援を求める電報を打った。

占山の抗戦は、全国の人民の抗日意識を奮い立たせて、各地で慰問団の組織化が始まった。

手紙や募金を集めて、募金で豚・牛や日用品を買い、代表団が馬占山軍に届けた。

さらに黒竜江省の各地から、銃を持って抗日戦に参加する者が出てきた。

11月8~19日までは、日本軍は爆撃を繰り返しつつ、「馬占山はソビエトと密約している」とか「駐チチハル領事の清水八百一が殺された」といったデマを飛ばした。

11月10日に馬占山と謝珂は、声明を出して実状を発表した。

日本軍は、精鋭と評判の多門・師団が応援に駆けつけて、12~18日まで馬軍と激戦した。

馬軍は、援軍がなく、弾薬も尽きてきたため、18日に総退却して、チチハルに撤退した。

馬占山は敗れて撤退したが、その善戦ぶりは中国全土にとどまらず国外にも伝わった。

そして抗日を盛り上げる役目を果たし、中国全土で抗日の勢いが強まり、各都市で反日の市民大会が開かれた。

北京の学生たちは「抗日救国会」を組織し、「北上して抗日しよう、馬占山を支援しよう」と訴えた。

学生たちは南京に行って国民政府に請願しようとしたが、政府は「学生列車」の運行を禁止して、それを阻止しようとした。

それでも北京の学生たちは、12月7日に列車で南京に向かい、政府の外交部に押しかけた。

蔣介石は特務隊を送って、南京以外の学生たちを片っ端から捕まえて、列車に乗せて送り返した。

だが南京の中央大学は学生に占拠され、学長が辞表を提出した。

各地の学生たちは、「対日断交、北上抗日」を主旨とする決議文を発表して、蔣介石と張学良の弱腰を批判した。

一方、関東軍は11月18日にチチハルの攻撃を開始した。

チチハルを守りきれないと判断した馬占山は、克山へ撤退することにした。

11月19日に関東軍は、黒竜江省都のチチハルを占領した。

そして馬軍を追撃し、寧年駅で激戦を交わした。

11月20日に克山に着いた馬占山は、22日に海倫にて「黒竜江抗戦政府」を樹立した。

しかし冬期の海倫は、氷と雪に覆われる地である。
さらに叛乱によって全ての物資が不足していた。

その一方で、日本国内では政争の結果、12月11日に若槻礼次郎・内閣が総辞職した。

この日、中国の国民政府では蔣介石の引責辞職が要求され、翌12日にあっさり介石は辞職した。

12月28日には、林森が主席、孫科が行政院長という新布陣が決定した。

日本軍は、馬占山軍を攻撃したが、厳寒に慣れないため鈴木旅団の1700人が戦死し、1400人が負傷した。

当時、関東軍の主力は錦州にて、東北辺防軍および抗日義勇軍と戦っていた。

錦州には張学良が率いる東北辺防軍(旧奉天軍)の4.5万人がいて、さらに学良が資金援助した馬賊たちが抗日義勇軍と称していた。

錦州は、満州と中国本土の接点で、一種の聖域とされており、日本軍は満州を制圧するための最後の目標地にしていた。

錦州は張学良の拠点になっており、以前から関東軍は攻略を計画していた。

1931年10月8日に、関東軍の戦闘機11機が、錦州を爆撃した。

同年12月末になると、張学良軍は錦州から撤退して、山海関へ向かった。華北に撤退したのである。

こうして関東軍は、32年1月3日に錦州を占領した。

この間、馬占山はチチハルを奪回しようと考え、張学良に反撃の指示を下すよう要請した。

しかし学良は、蔣介石の無抵抗主義に従って、反撃の指示を出さなかった。

(2021年6月3日に作成)


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