タイトル岸信介と満州産業開発5ヵ年計画

(『満州帝国史』太田尚樹著から抜粋)

岸信介は、長州の出である。

長州人は何人も総理大臣を出しており、総理を目指すのは長州人のサクセス・ストーリーの1つであった。

信介が少年の頃に、日本で勃興してきたのが「大アジア主義」だった。

この主義は、欧米列強の植民地支配からのアジアの解放と、アジアの自立を目指すものだ。

その一方で、日本には後進のアジア世界から脱して欧米の一員になるのを目指す、「脱亜入欧」の思想もあった。

「大アジア主義」と「脱亜入欧」が合体した結果、中国や朝鮮を支配下に置こうとする潮流が沸き起こり、朝鮮半島をめぐって日清戦争となった。

そして日本は、日露戦争でロシアに勝つと、日本を盟主とする「大東亜共栄圏」の思想へ進んで行った。

岸信介は東大に在学中、大アジア主義に関心を抱き、さらに大川周明の思想に傾倒した。

周明は、その論文が満鉄総裁の後藤新平に注目され、1918年に満鉄・東亜経済調査局の編輯課長になった。

周明が満鉄に入社した事は、信介の目を満州に向ける1つの動機となった。

学生時代の信介は、盛んに周明を訪ねて議論していた。

岸信介は1920年に農商務省に就職したが、後に「私の満州行きの基礎には、大川周明の考え方があったことは否定できない」と語っている。

信介の持論になる国家主義や統制経済は、東大時代の上杉慎吉・教授、北一輝の国家社会主義、大川周明の大アジア主義から学んだと見られる。

岸信介は1926年に、半年間の欧米視察をした。この時30歳だった。

アメリカではピッツバーグの鉄鋼所を見学し、アメリカの生産量が月に500万トンである事に驚いた。

日本では年に100万トン未満の時代である。

さらにドイツでは、高い技術力と徹底した国家統制、軍民一体の猛烈な労働ぶりに驚いた。

信介は「日本の行く道はこれだ。アメリカには歯が立たないが、ドイツ式なら日本もやれる」と確信したという。

同じ頃にドイツに来た、陸軍の岡村寧次、小畑敏四郎、永田鉄山、東条英機、山下奉文らも、国家を挙げての総力戦体制の虜になった。

岸信介が商工省(農商務省から1925年に分離)の工務局長の時、陸軍の満州派の将校から「ぜひ満州に来てくれ」と再三誘われ出した。

信介が満州国の国務院実業部・総務司長として赴任したのは、1936年10月だった。

信介は37年7月には産業部・次長に、38年3月には国務院・総務庁次長に就いて、満州国の行政における実業部門のトップになった。

信介の上には総務長官の星野直樹がいたが、大蔵省から来た財政の専門家で、実業には疎かった。

満州国政府の行政は、民政部や外交部や財政部などの各部から成っていたが、別に置かれた「総務庁」が予算編成を握り、どの部も頭が上がらない。

さらに各部のトップは満州人だが、形式上の役職にすぎなかった。

岸信介が38年3月に就いた総務庁・次長は、産業行政の実質上のトップである。

満州国の舵取りをする総務庁は、ほとんどが日本内地の中央官庁から送り出された官吏で占められていた。

彼らは若くてエリート意識が強く、出身官庁ごとの縄張り意識も強かった。

岸信介は商工省にいた頃に、自らが中心となって『満州産業開発の5ヵ年計画』を作成していた。

これを実施する事になったが、信介は関東軍と交渉するにあたり、長州人であることが役立った。

日本陸軍は「長州の陸軍」と言われるほどに、老将軍から若手将校にいたるまで長州人が多かった。

さらに信介が官界や財界と交渉する上で役立ったのは、彼が学んだ一高と東大の学閥であった。

信介の満州人脈を見ると、長州と学閥のいずれかが根底にある。

信介は話し上手で人付き合いが良いので、芸能人、満州浪人、右翼、ヤクザとも気軽に付き合った。

見かねた部下の源田松三が「なにもあんな連中と付き合わなくて」と言ったところ、「人間には良い所が1つはある。そこと付き合えばいい」と逆にたしなめた。

ちなみに源田松三は、総務庁の主計処で予算や決算を担当した。

岸信介の東大法学部での後輩にあたる古海忠之は、信介の後に総務庁次長を務め、さらに総務長官となり、阿片ビジネスの元締めをした。

満州国政府は国家ぐるみで阿片ビジネスを展開しており、岸信介ももちろん深く関わったが、古海忠之は「阿片はボクが独りでやったことだ」と庇い通した。

忠之は、日本が敗戦すると戦犯として長く獄中に置かれた。
彼は後に東京卸売センター社長などを歴任したが、信介の存在なくしてはあり得ない。

岸信介は、商工省にいた時代から、仕事が終わると新橋や築地に円タクシーや人力車で乗りつけ、遊んでいた。

彼は満州国に来ると、単身赴任のうえに遊興費がふんだんに使えたため、遊びに拍車がかかった。

「岸は酒と女が凄かった」は、彼を知る者たちの共通の回想である。

信介ら官吏の行きつけは、新京駅前のヤマトホテル、料亭の「八千代」か「桃園」だった。

信介は関東軍の将官たちをよく接待して、内地から来た芸者と酒でもてなした。

岸信介が渡満した翌年(1937年)の7月7日に、盧溝橋事件が起きて、日中戦争が始まった。

このため満州国政府は、軍との協力体制が深まった。

当時の関東軍司令官は植田謙吉だが、在満中の信介が最も親しくした軍人は東条英機だった

信介が渡満した時、東条英機は関東憲兵隊・司令官だった。
英機はその後に、関東軍・参謀長になった。

信介と英機の交流は発展し、英機が1941年に首相になると信介は閣僚になって協力した。

しかし太平洋戦争の当初から、信介は英機を内心ではバカにしていて、部下だった武藤富男が訪ねてくると「東条なんか裸にすれば、橋下欣五郎以下の男だからね」と冷笑していた。

信介は英機を、自分が首相になるためのステップとして利用していたに過ぎなかった。

さらに岸信介は、関東軍の闇の部分を取り仕切っていた甘粕正彦とは刎頚の友だったし、阿片王と言われた里見甫とも付き合っていた。

満州国についてよく言われるフレーズに、「二キ三スケ」がある。

「二キ」とは、東条英機と星野直樹(総務庁長官)のことだ。

「三スケ」とは、岸信介、松岡洋右(満鉄の総裁)、鮎川義介(日産のトップで、満州重工業の総裁)だ。

三スケは、いずれも長州人の上に、姻戚関係で結ばれていた。

前述した『満州産業開発の5ヵ年計画』は、岸信介が赴任してきた1936年10月から動き始め、37年早々にスタートした。

37年に日支事変(日中戦争)が始まったため、開発計画が強化され、資金も総額60.6億円に跳ね上がった。

5ヵ年計画の間に、銑鉄は5.7倍、石炭採掘は2.6倍、電力は5.6倍に急上昇した。

この急上昇は、信介に口説き落とされた鮎川義介が、日産の主力をそっくり満州に移転させ、「満州重工業」をスタートさせたのも大きかった。

北満州で採れる良質の石炭(粘結炭)は、日本の軍需産業に貢献した。

「満州は日本の(戦争の)生命線」は、単なる謳い文句ではなかった。

だが満州の産業政策は、日本の戦争のために進められたもので、満州国民の生活向上は置き去りにされた。

とはいえ、造られた産業施設が後に中国政府に引き継がれ、工業発展に貢献したのも事実である。

(2020年9月23日、10月2日に作成)


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