(『満州帝国史』太田尚樹著から抜粋)
満映は、正式名を「株式会社・満州映画協会」といい、1937年に満州国の首都「新京」に設立された。
初代会長は愛新覚羅(旧清朝の皇族)の一族の金璧東で、彼は川島芳子の腹違いの兄である。
しかし会長職は形式にすぎず、実権は林顕蔵・専務理事が握っていた。
満映は、満州国政府と満鉄が50%ずつ出資して作られ、映画の制作と配給、各都市への映画館の設置と運営をした。
配給先は、満州国内の他にも、中国内の日本租界があった。
満州での映画制作は、満映の前から、満鉄の弘報部映画班によって始められていた。
関東軍の指導でニュース映画を撮り、プロパガンダに協力した。
満映では、『撫順炭鉱』と『農業満州』の作品で産業を紹介し、観光向けには『夏のハルピン』『満州周遊』、軍事では『満州事変・記録映画』『防空演習実況』などを制作した。
こうした作品は、国策映画であり、娯楽性は無かった。
満映の設立には関東軍や憲兵司令部が関わっていたから、無理もなかった。
1939年になると、満映のトップ「理事長」に、甘粕正彦が起用された。
この人事を進言したのは、満州国・法制局参事官のまま、協和会で正彦の補佐をして宣伝科長をしていた、武藤富雄だった。
富雄の進言に、「うん、彼でいこう」と強く支持したのは、岸信介だった。
この人事が知られると、満映の社内や東京の満映本社では、大騒ぎになった。
「文化活動が右翼の軍国主義者に乗っ取られる」「軍部による独裁専横の人事」「人殺し(※甘粕正彦は憲兵時代に虐殺に関わっていた)の下で働くのはごめんだ」
しかし岸信介は、関東軍参謀長の所に乗り込み、「甘粕正彦に満映の改革をやらせたい」と言って就任させた。
甘粕正彦は理事長になると、まず役者の給与にメスを入れた。
スター役者の李香蘭の月給は250円だが、満州人や中国人の役者は10分の1にも満たない額だった。(※李香蘭は日本人の女優である)
これを知った正彦は、「高い給与を出せば、人はよく働く」と言って、底上げを図った。
撮影の機材と施設の充実にも金を惜しまなかった。
正彦が動かしている阿片ビジネスの上がりから、金が捻出されたのは間違いない。
他にも正彦は、日満の要人が集まった宴会で、満映の女優がお酌をさせられているのに憤慨し、「女優は芸者ではない、芸術家です」と言ってお酌を禁止させた。
甘粕正彦が満映・理事長に就任した頃、日本では東宝が制作した『白蘭の歌』が大ヒットした。
これは東宝の俳優・長谷川一夫と、満映の李香蘭が共演したものだ。
その後、立て続けに長谷川一夫と李香蘭のコンビによる『支那の夜』『熱砂の誓い』が封切られ、『白蘭の歌』と合わせて「大陸三部作」と呼ばれた。
この3作品は、日本の大衆に満州への憧れを生み、「満蒙開拓団」や「大陸の花嫁」を後押しすることになった。
なお、これは東宝が制作した日本映画で、満映は配給と李香蘭の出演で協力したにすぎない。
大陸三部作について、映画評論家の佐藤忠男は『キネマと砲声』でこう評論している。
「長谷川一夫は日本を代表し、李香蘭が中国を代表する。
中国がこんな風に日本を信頼して頼るならば、日本は中国を愛するであろうというのが、このラブストーリーに託しているメッセージだった。
もちろんそれは、日本人が一方的に中国に押し付けるもので、中国にとっては屈辱以外の何ものでもない。
だが中国侵略の現実を知らずにいる日本人にとっては、甘い自惚れを満足させる甘美な幻想であった。」
純真無垢な支那娘が、日本の男を慕うというストーリーは、日本の優位性が根底にあった。
誰しもが日本語の上手い支那娘と思い込んでいた李香蘭は、実は日本人で、日本人の両親の下で撫順に生まれ、北京で成長したのだ。
日本で李香蘭は大スターになり、「日劇七回り事件」が起きたほどだった。
この事件は、来日した彼女を見ようと、彼女の出演する日本劇場に大勢のファンが押し寄せ、日劇を七回り半も取り巻いた騒動である。
甘粕正彦が満映の理事長になると、満映の事業は拡大し、日本から歌舞伎一座や音楽家を招いて、満州各地を興行させる事も行った。
1942年の満州国・建国10周年の祝典には、山田耕作や斎藤秀雄らも招待された。
42年10月に来満した宝塚少女歌劇団は、日本人だけでなく満州人をも魅了した。
映画作りでは、養成所を設置し、内田吐夢のような大物監督を日本から招いた。
上海において川喜多長政が、汪兆銘の南京政府、満映、日本映画界の共同出資による『中華電影』という映画会社をつくった。
満映はすぐに自社制作の映画を売り込んだ。
満映の作品のうち、国策臭のない『萬世流芳』などの作品は、中国人社会でもヒットした。
甘粕正彦は、新京交響楽団の設立も主導した。
新京音楽院も設立された。
若き日の朝比奈隆は、終戦までの1年間は新京交響楽団を指揮した。
その頃は日本ではオーケストラどころの状況ではなかったが、満州ではまだ余裕があった。
(『満洲国とは何だったのか』<日中共同研究> 胡昶の文章から抜粋)
満映は、関東軍と満州国警察を中心とする「満州電映国策研究会」の画策によって、1937年8月21日に設立された。
設立時の資本金は500万元で、満鉄と満州国政府がそれぞれ250万元を出した。
設立当初は、日本の毛織物商店の二階を事務所とし、しばらく寅城子駅の遺棄されたプラットホームを臨時の撮影所とした。
1939年11月1日に、洪煕街(今の紅旗街)に撮影所が落成し、満映はここに移った。
同時に甘粕正彦を理事長に任じ、資本金を900万元に増やした。
満映は、特殊な国策会社で、その使命は「満州映画協会の案内」に明らかだ。
「満映は、満州国の国策会社で、平時には精神の建国に重大な責務を負う。
有事に到れば、その責務はますます拡大し、日本と一丸になり映画を借りて思想戦・宣伝戦を戦う。」
これを見れば、映画を通じて民衆に娯楽を与えるのではなく、映画を利用して民衆に植民地主義の思想や文化を注入しようとするものだったと知れる。
満映の成立は、1935年11月に設立された『大日本映画協会』の誕生とよく似ている。
同協会は相次いで軍の要人が会長となったが、その使命を次のように謳い上げていた。
「映画をして大日本帝国の国策に参加せしめ、有事の際はもちろん、平時においても政治に外交に、映画の持つ宣伝と教化の特性を発揮して、報国の実を挙げんとするもの。」
満映が撮影した映画は、娯楽映画、啓発映画、時事映画(ニュース映画)の3種に分けられる。
満映が存在した8年間に、娯楽映画は108本制作されたが、日満親善や五族協和を表現する国策ものが突出していた。
『壮志燭天』『大陸長虹』『鉄血慧心』『国境之花』などなど、どれも日本を宣伝し、日本の侵略や満州国を美化する内容だった。
『如花美眷』『有朋自遠方来』『歌女恨』などは、娯楽性が強い作品で、一定程度は民衆の境遇を反映していた。
また喜劇や時代劇の作品もあった。
満映が制作した啓発映画(記録映画と科学教育映画)は、189本あり、『発展的国都』『黎明的華北』『戦闘的関東軍』『日満一如』『光輝日本』『満州建国史』『満州中央銀行』『皇紀二千六百年紀慶』『関東軍』などがある。
他にも、30号を超すニュース映画を制作している。
満映は、フィルムの配給と輸出を行い、満州国内に200館を超す映画館を経営した。
国外にも自社作品を配給し、イタリアやドイツと映画の輸出入の協定を結び、相互に配給した。
満映は役者の訓練所や養成所を持ち、青年学校をも開設して、400人以上の生徒を送り出している。
満映の人員は、創設時は100人だったが、1944年11月1日には1857人にまで膨らんだ。
45年8月15日に日本が降伏すると、20日に満映理事長の甘粕正彦は自殺し、満映は解体した。
10月1日に東北電影公司が成立し、経営は中国人の手に移った。
(2020年10月17&30日に作成)