タイトル満鉄(南満州鉄道株式会社)と満鉄調査部

(『満州帝国史』太田尚樹著から抜粋)

日本の満州経営にとって、ひときわ大きな存在だったのが、『南満州鉄道・株式会社』(満鉄)である。

満鉄は、日露戦争が終結した翌年の1906年に設立された、半官半民の特殊会社だ。

アメリカの斡旋で日露戦争が終わると、アメリカの鉄道王ハリマンは日本に乗り込んできて、日本がロシアから引き継いだ(日本が戦争で獲得した)南満州鉄道の共同管理を持ちかけた。

桂太郎・内閣は、それを飲み閣議決定して契約したが、ポーツマス講和会議から帰ってきた小村寿太郎が猛反対して潰した。

寿太郎は「日本が血を流して獲得した利権に、アメリカが割り込んでくる事に断固反対する」として、契約を破棄させたのだ。

これは歴史のイフだが、満鉄を日米で共同経営していれば、その後の歴史は変わっていた可能性が高い。

満鉄の初代総裁には、台湾総督府・民政長官をした後藤新平が就任した。

台湾時代の新平は、同郷の学者・新渡戸稲造を引き抜いて殖産局長に据え、製糖業を成功させていた。

その実績を西園寺公望・首相が買っての抜擢だった。

ちなみに官僚・政治家の椎名悦三郎は、後藤新平の甥である。

後藤新平は、満鉄総裁の就任に際して、満鉄を監督する「関東都督府(後の関東庁)」から干渉されるのを懸念し、満鉄総裁が関東都督府の最高顧問を兼任するのを条件に受けた。

さらに新平は、中央官庁(日本政府)の優秀な人材を在官のまま満鉄の役職に就ける案も実現させた。

満鉄は、南満州支線(大連~長春)を拠点に、長春からハルビンまでの路線をロシアから買収し、朝鮮半島と結ぶ路線を新設した。

さらに満州事変の後には、奥地のチチハルを越えて黒河や満州里まで路線を伸ばした。

満鉄は戦時下では兵員輸送や軍需物資も輸送し、鞍山(鉱山)と撫順(炭鉱)からの輸送もした。

旅客輸送では、大連~新京(長春)を7時間半で走る「特急あじあ号」がシンボル的存在だった。
時速130kmのあじあ号は、世界最速を誇った。

あじあ号は、1934年から運行したが、冷暖房が付いており、内部の装飾にはマホガニーをふんだんに使うなど、高級ホテル並みと言われた。

営業速度は時速130kmだったが、最速では150kmを出せた。

その技術は、戦後の新幹線へ引き継がれた。

満鉄は鉄道事業に留まらず、関連企業は80以上に及んだ。

各地のヤマトホテルの経営や、鞍山製鉄所、昭和製鋼所、満映、華北交通、大連汽船、日満倉庫、満州日日新聞、満州航空、南満州電気などである。

要するに、満鉄は一大商社だった。

日産コンツェルンの鮎川義介を、岸信介が内地から引っ張ってきて、「満州重工業(満業)」が設立されると、満鉄と事業内容が重なった。

信介は、満鉄総裁で叔父の松岡洋右から睨まれた。

満鉄社内では、「満業の設立でこうむる満鉄のマイナスに対し、鮎川義介は岸信介を通して、松岡洋右個人に見返りの利益を与えた」と噂された。

松岡洋右は、昭和製鋼所など多くの満鉄の持株を、満業に移譲した。

以後の満鉄は、鉄道・港湾・撫順炭鉱などの経営に専念した。

話は戻るが、満鉄が発足した時(1906年)に、同時に情報収集と分析をする『満鉄調査部』が大連に設置された。

この機関の設立を指揮した後藤新平・満鉄総裁は、「植民地政策は覇術なり」と言ったが、知の集団を創って植民地政策に役立てようとした。

1908年には東京の満鉄支社にも、「東亜経済調査局」が設置された。

東亜経済調査局は、後に満鉄調査部と統合した。

満鉄調査部の第1の目的は、西欧の植民地政策と経済の仕組みを研究することだった。

第2の目的は、日本帝国の満州政策を世界に宣伝することだった。

植民地経営の研究で知られていた大川周明は、イギリス領のインドに関する研究論文が後藤新平の目にとまり、1918年に満鉄に入社した。

岸信介が満鉄調査部と東亜経済調査局の資料を渉猟していた事は、後の彼の満州政策に影響を与えただろう。

満鉄調査部には、後に流行歌手となる東海林太郎もいた。

太郎は1923年に入社し、遼寧省・鉄嶺の図書館長に転任した。

満鉄調査部には、左翼思想の持ち主も大勢いた。
満州には自由な研究を可能にする空気があった。

佐野学(27年12月に日本共産党・委員長になった人)は、1919年に東亜経済調査局に嘱託で籍を置いている。

しかし1942年に、多数の満鉄調査部員が関東憲兵隊に検挙される、『第一次・満鉄調査部事件』が起きた。
翌年7月には10名が追加で検挙される『第二次・満鉄調査部事件』も起きた。

満鉄調査部は、場所がらから「ソ連研究のメッカ」とも言われ、実際にソ連の分析研究もしていた。

満鉄調査部も関わっていた「ゾルゲ事件」が発覚したのは、1941年10月である。

リヒャルト・ゾルゲの共犯者である尾崎秀美は、上海で特派員をしている時にゾルゲ団の協力者になった。

その後に秀実は、近衛文麿のブレーンとなり、第一次・近衛内閣では内閣嘱託で働いた。

秀実はゾルゲ事件の発覚時は、満鉄東京支社・調査部に顧問格の高級嘱託として在籍していた。

同じく嘱託で在籍した者に、平野義太郎、細川嘉六、伊藤律がいた。

満鉄から尾崎秀美に支給される給料は、月額500円と高額だった。

秀実は、満鉄の東京時事資料・月報を編纂しており、大連の満鉄本社での調査部会に東京支社代表として出席することもあった。

つまり極秘情報にタッチできる立場で、その情報がゾルゲ経由でソ連に漏れていた。

先に書いた『満鉄調査部事件』は、ゾルゲ事件を受けて憲兵隊が満鉄を捜査したといえる。

関東憲兵隊・司令官をしていた時の東条英機は、外国のスパイ活動を警戒し、怪しい者は漏れなくブラックリストに載せて内偵したが、それに協力したのは関東軍の特務機関だった。

英機は民間人まで捜査・検束できる、関東局・警務部長を兼任していた。

二・二六事件が日本で起きた時(1936年)、東条英機は在満州の皇道派の将校とその理解者を600名以上も逮捕して、厳しく取り調べた。

捕まった民間人の半数以上が、満鉄の関係者だった。

英機は、ニ・二六事件の裏にソ連ありと見ていた。

ニ・二六事件で決起した将校たちの資金援助者は誰だったのか。
近衛文麿説もあるが、コミンテルン説もある。

当時に満州にいたソ連のスパイで、名前が判明しているのはルト・ルシンスキーである。

ルトは上海時代に、リヒャルト・ゾルゲの恋人だった女性だ。

ゾルゲ団が逮捕された後、皇族の秩父宮(昭和天皇の弟)や、陸軍の高官に、ゾルゲ達が接触していたと判明した。

しかもゾルゲは、秩父宮を通して弟の高松宮とも接触し、日本海軍の情報を得ていた可能性も浮上した。

皇族が関わっている事に慌てた東条英機・内閣は、ゾルゲ事件の取り調べに軍用資源秘密保護法が適用される「軍法会議」を避けて、「治安維持法」で取り調べることにした。

もし軍法会議で調べれば、陸軍情報や海軍情報がソ連に漏れていた事が白日の下に晒される。

それを避けるために捜査は内務省の担当になり、ゾルゲ事件と皇族や軍の関わりは闇に葬られてしまった。

(2020年10月6&12日に作成)


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