(『馬占山と満州』翻訳・陳志山、編訳・エイジ出版から抜粋)
1933年に入ると日本の関東軍は、熱河省への進攻の準備を始めた。
当時の熱河省は、湯玉麟が主席だったが、彼は軍と阿片で民衆を支配して、莫大な私財を蓄えていた。
33年2月10日に関東軍・司令官の武藤信義は、『熱河経略計画』を示達した。
「熱河省をして満州国の領域たらしめ、かつ擾乱の策源たる張学良の勢力を覆滅する気運を促進し、満州建国の気運を確立する」
この時、関東軍は長城以南(万里の長城の南)の河北省への進攻も計画していた。
33年1月1日に、関東軍は山海関で中国軍と衝突し、3日に山海関を占領した。
(※山海関は、渤海湾に面した長城線の関門である)
河北省の北平(北京)にいる張学良は、蔣介石に支援を要請すると共に、湯玉麟に日本軍と戦うよう指令した。
蔣介石は、張学良を督励するため、行政院長・代理の宋子文を北平に派遣した。
宋子文は2月12日に北平に着くと、次の声明を発表した。
「熱河省は中国の一部にして、熱河への攻撃は首都(南京)への攻撃と変わらない。日本が攻撃すれば、我々は全力で抵抗する。」
当時、張学良は2つの軍団の司令官だった。
東北軍と黒竜江省の万福麟軍は、学良が総司令となっていた。
一方、湯玉麟らの軍は、張作相が総司令だった。
1933年2月23日に関東軍は、熱河省へ進攻を始めた。
25日に熱河省の東の出入口である開魯を、関東軍が占領した。
すると湯玉麟は私財を天津に移送して、3月4日に省都の承徳から逃げ出してしまった。
日本軍は承徳を占領し、3月7日には長城線に達した。
同じ頃、万福麟軍は日本軍と戦ったが、一部が反逆して日本側に付いてしまい、張家口に敗退した。
こうして熱河省は、短期で日本軍に占領された。
南京政府(国民党政府)と張学良の無能を非難する声が高まり、学良は3月8日に南京政府に辞表を提出して、4月11日に外遊に出発してしまった。
学良の後任には何応欽が就任し、華北の軍権を握った。
4月10日に関東軍は、長城線を越えて、華北へ侵攻を始めた。
一度は軍部・中央の反対で撤退したが、5月7日に再び侵攻を始め、5月21日に北平城外に迫った。
5月25日に何応欽の申し出で停戦交渉が始まり、5月30日に『塘沽停戦協定』が調印された。
(『日本20世紀館』小学館発行から抜粋)
内モンゴルの東部は、漢人化が進み、1928年に熱河省となった。
そこは東北3省(遼寧省(奉天省)、吉林省、黒竜江省)とは別で、軍閥の湯玉麟が省長の地位にあった。
日本が言う「満蒙」には、早くから熱河も含まれており、満州国は当初から熱河も領土に入れる計画だった。
関東軍は湯玉麟を満州国に参加させようとしたが、玉麟は様子見をきめた。
1933年1月に山海関で日中両軍の衝突が起きると、日本軍部は熱河省への侵攻に踏み切った。
政府はこれを受けて、「熱河作戦の実施」と「国際連盟からの脱退」を閣議決定した。
2月に日本軍は熱河省への進攻を始めて、3月に省都の承徳を占領し、熱河省を支配下に置いた。
だが長城に達すると、そこを守る中国軍に苦戦を強いられた。
熱河省の南西にある河北省のうち、興隆県などは長城線の外側(関外)にあった。
日本軍はそこも占領し、熱河省に編入した。
日本軍は1933年4月になると、長城線を突破して、河北省の関内に進攻した。
だが国際関係の悪化(列強国の非難)を予想した日本軍部は、裕仁(昭和天皇)が作戦を憂慮したのもあって、いったんは撤退を命じた。
しかし5月になると、正式に関内作戦を発動し、北京から50kmの懐柔にまで進撃した。
ここで日中双方で停戦の気運が高まり、天津の東にある塘沽(タンクー)で停戦会談が開かれた。
日本側は高圧的な要求をしたが、中国側は全面的に呑んで、5月末に停戦協定が結ばれた。
『塘沽停戦協定』では、中国軍は河北省の東部から撤退することになり、そこに非武装地帯がつくられた。
その内容は、中国側にのみ義務を負わせる一方的なものだった。
塘沽停戦協定で満州事変は終わり、満州国は熱河省を併合して領土を確定した。
(2021年6月5日に作成)