タイトル川島芳子の生涯①
その最後と周りの者の評価

(『男装の麗人・川島芳子伝』上坂冬子著から抜粋)

張作霖爆殺の責任者とされる関東軍参謀の河本大作。

その娘は修道女で、話をきく機会があった。

彼女によると、大作は彼女が1940年にキリスト教の受洗を決意した時、「自分の人生は自分の意思で決めるがよい」と言った。

1940年といえば、神国日本の紀元2600年を祝う年であったから、あの軍国主義体制下でと、意外な思いである。

河本大作の娘は、川島芳子にも言及した。

「大連の家に芳子さんはよく訪ねてきました。
1935年前後でしたが、財政困難になった彼女に、父はお小遣いをあげていたようです。

女学生だった私は、芳子さんにダンスホールに連れて行ってもらったり、蒙古の子守歌を教えてもらったりしました。」

川島芳子は、1933年に作家の村松梢風の著書『男装の麗人』が刊行され、そのモデルとして一世を風靡した。

『男装の麗人』は、1932年9月から婦人公論に連載された小説で、「満蒙建国の黎明」という映画になりヒロインは入江たか子が扮したという。

34年3月には舞台化され、東京宝塚劇場で水谷八重子が主演した。

村松梢風が『男装の麗人』を書いたのは、軍部の某氏に「川島君を題材にしたらどうか」と言われたのがきっかけだった。

前後の脈絡からして、某氏とは(川島芳子の愛人だった)田中隆吉である。

『男装の麗人』について梢風は、「全部が空想だと考えて宜しい」と、フィクションであることを強調している。

だがベストセラーになったため、今なお作り上げられた川島芳子像が亡霊の如く存在しているのである。

1982年3月に中国の北京日報は、「漢奸金壁輝の銃殺刑」という次の記事を載せた。

(漢奸とは、中国の売国奴の意味である。
金壁輝(金璧輝)は、川島芳子が名乗った中国名である。)

「1948年3月25日の午前6時40分に、漢奸の金壁輝は、北平(北京の古い呼び方)の監獄で銃殺刑に処された。

金壁輝は、清朝の肅親王・善奕(善耆の誤り)の第14王女として東京に生まれた。

3歳の時に清王朝の顧問である日本人・川島浪速の養女となった。
それ故、川島芳子ともいう。

金壁輝は、その養父母が日本皇室と婚姻関係にあったため、日本の要人と交際を結べて、清王朝の復辟(清王朝の復活)を企んだ。

彼女は、偽満州皇宮の女官長をつとめ、関東軍参謀長・多田駿と共に満州国軍の設立をした。

さらに溥儀を迎えて偽政府の組織化を企てた。

また彼女は、蒙古出身の夫、カンジュルジャップの王府軍の訓練を手伝い、蒙古独立の画策に参加した。

他にも多田駿や特務機関長の和知鷹二らと共に、汪精衛を利用して政権樹立を画策した。

こうした売国利敵の罪はこの上なく重く、1945年11月に逮捕され、48年3月25日に銃殺された。」

どうやら中国側にも川島芳子の資料は不足しているらしく、この記事には誤りが見られる。

例えば、東京に生まれたとあるが、彼女は北京で生まれている。

また、川島浪速の家系を皇室と姻戚関係にあるとしているが、事実無根である。

とはいうものの、概略は記事の通りで、清朝の王族として生まれ、日本人の手で育てられ、日中戦争の渦中の人となった。

川島芳子を知る人物の1人に、部落解放研究所・理事長の原田伴彦がいる。

伴彦の母は、川島浪速の養女という形で原田家に嫁いでいた。

伴彦は7~21歳ころに折にふれて芳子に接し、追悼文を書いている。

「川島芳子の生活には、理想もイデオロギーもなければ、近代的性格もなかった。

一切の虚飾を取り除いた時、私の眼に映る彼女は、幸福な女の本道を行くことが出来なかった不幸な女である。」

川島芳子の本名は、「愛新覚羅・顕㺭(けんし)」という。

清王朝の王族の善耆の娘で、金璧輝という名は後になって彼女が自ら名乗ったものである。

金璧輝という名は、善耆の第7王子の憲奎が金璧東と号したのにあやかったのだろう。

私は中国に旅行し、川島芳子の取材をした。

北京に着くとまず、芳子と同腹の第17王女にあたる、実妹の顕琦を訪ねた。

彼女は日本の女子学習院を卒業しており、現在は北京市の文史研究館に勤め、郊外に夫と暮らしている。

芳子と同腹の2人の妹、顕瑠と顕琦は、川島浪速に育てられて通称「浪子」「速子」と呼ばれた。

だが顕琦は、「速子と呼ばれるのは嫌です。川島浪速ごとき人物の名残りを留めたくない」と言い切った。

さらに「芳子姉さんの悲劇は、浪速の養女となった事にあり、もう1つは美貌がたたったのです」と語った。

次に訪ねたのは、芳子とは腹違いの姉にあたる第12王女の顕珴である。

彼女は「芳子は決して悪い人間ではなく、環境が悪かったのです」と言う。

川島芳子の兄弟は、日本にも居る。

その1人が、同腹の長兄にあたる第14王子の憲立である。

中国にいた憲立は、1950年に政府の北京軍事管制委員会から、「日本軍の放置していった武器を補修する部品調達のために訪日せよ」と命じられた。

憲立は観光団の一員となって来日したが、これは妻捜しの旅でもあった。
彼の妻は日本人で、日本が敗戦すると引き揚げていたのだ。

彼は妻と再会し、そのまま日本に滞在し続けた。
小松製作所など大企業の翻訳を引き受けたり、NHKの中国語の仕事に従事して生計を支えた。

日中の国交回復後に、憲立は日本国籍を取得した。

日本名を名乗り見事な日本語を駆使する彼を、清王朝の末裔だと気付く人はいまい。

憲立に芳子観を問うと、いささか辛辣な口調でこう述べた。

「芳子には理想がなく、取り巻きは通俗的な人物が多すぎた。

家庭的に恵まれず、生来の特異な性格もあって、その一生は無意味な独走の繰り返しに終わっている。」

日本に在住するもう1人の血縁者は、第1王子・憲章の娘、すなわち芳子にとって姪にあたる廉鋁である。

廉鋁は今、日本人の川島廉子として長野県松本市に住んでいる。

彼女も川島浪速の養女となり、かつては芳子の「妹」として扱われていた。

廉子は、旅順で生まれたが、川島浪速に伴われて1924年に来日した。

浪速の養女として入籍されたのは、1933年である。

40年に京大出身の薛錫三と結婚し、北京で暮らし始めた。

中国で共産党が新国家を立ち上げると、1959年に廉子は日本行きを希望したが、それが元で農村に下放された。

中国で文化大革命が始まると、廉子は親日派と見られて、大勢の前で自己批判を強いられた。

1972年に日中の国交正常化が成されると、廉子は来日が許可された。それからは日本で暮らしている。

廉子に「川島芳子とはどんな存在か」と問うと、こう答えた。

「あのような運命に巡り合わねば、良い主婦になったでしょう。
可哀相な女性という気がしてなりません。」

私が川島芳子の取材をしていると、長崎から一通の手紙が届いた。

差出人は小方八郎である。

手紙の内容は、「自分の手元にある川島芳子の手紙を引き継いでくれないか」との依頼だった。

まもなく八郎から、「中国北平宣外・第一監獄、川島芳子」が出した数通の手紙が届いた。
1947~48年に獄中の芳子が出したものである。

小方八郎は、1912年生まれで、一時期は藤原義江の一座に加わって中国大陸を回った。

福岡市のホテル清流荘に逗留した芳子は、そのホテルの従業員だった八郎を見込んでスカウトし、身辺の雑事を任せたのである。

八郎はそれ以来、芳子に付き添い、戦後になって芳子と共に北京で逮捕された。

芳子の晩年の10年間に、最も身近で過ごした人と言えよう。

八郎は釈放されて、1947年4月に日本に帰国したが、そこに北京の獄中から芳子が手紙を出したのである。

その文面には、当時の芳子を知る重大なヒントがある。彼女は男言葉で綴っている。

「俺はとうとう、2回死刑(死刑宣告の2回目)だ。
へこたれないよ、元気さまさまだ。

俺様は大正15年のご誕生さ。至急、直してくれ。
そうすると、16や17で事変(満州事変)中になるんだ。

要するに、事変の年にワシは16以下でないと、助からんらしい。

至急、おやじに言ってくれ。
さもないと、さいこういん(最高法院)に間に合わぬ。」

芳子は処刑された時(1948年)、数え年で42歳だった。

だが当時の報道の大半は、年齢を30代としている。

この年齢差に、芳子の真意があった。

減刑を望む彼女は、「満州事変の時に16歳以下なら未成年扱いになる」と判断し、「大正5年のご誕生」を割り出したのだ。

大正5年生まれなら、満州事変の時は16歳になる。

さらに芳子は、養父の川島浪速にも手紙を出し、国籍に細工を加えるよう依頼している。

「この度、戸籍謄本が必要になりました。

私が日本国籍なら無罪になります。大至急、送って頂きたい。」

川島芳子は、そこまで生に執着したのである。

浪速の養女として世の注目を集めていた芳子だが、実は入籍されてなかった。

芳子の後に養女となった廉子は、正式に戸籍に記載されているが、芳子の名はない。

戸籍謄本を催促された浪速は、相当に苦慮したようだ。

結局、送られた証明書には「芳子は拙者がもらい受け、芳子6歳より我が家に引き取り、大正2年10月25日に養女となって、日本国民の一員として認識せられ居る者なり」と書いてあった。

これを見た芳子は、さぞうろたえたに違いない。

大正2年に引き取った時に6歳というのは、明治40年生まれを明確にする。

それに「日本国民の一員として認識せられ居る」という表現では、日本国籍の証明にならない。

小方八郎は、こう証言する。

「私は、偽の戸籍抄本を作成してくれと再三依頼しましたが、GHQの支配下にあった日本で川島浪速氏は踏み切れないようでした。

文書偽造の罪のみならず、1つ間違えば川島氏が戦犯容疑を受けると吐かれたのを記憶しています。」

確かに、かつて浪速と親交をもった伊達順之助は戦犯として上海の監獄に居た。

それに交際のあった荒木貞夫・元陸相はA級戦犯になっていた。

芳子は、浪速に宛ててさらに1通を送り、訴えている。

「先便(戸籍謄本を求めた手紙)に言い落としがあるので申し上げます。

憲章の字と、れんの字を改めないといけません。

父上の子になった証明が法律的にあればいいのです。

おれんの名は入りません。よしでないと通用しません。」

この分かりづらい内容は、厳しい検閲の下で真意を伝えようと計る芳子の細工だった。

憲章とは、清朝王族・善耆の息子で、芳子の異母兄のこと。

れんとは、憲章の娘で浪速の養女となった廉子のことである。

廉子は上述のとおり、正式に浪速の子となり、戸籍にも記載されている。

廉子はこう解説する。

「芳子・叔母は、私の戸籍抄本から父・憲章の名を消して川島浪速と書き改め、廉子の名を芳子に書き変えれば、偽の日本国籍ができ、自分は大正2年生まれの川島家の養女になると考えたに違いありません。」

(2020年4月20~22日に作成)


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