日本の植民地における阿片ビジネス①
阿片と関東軍・日本陸軍の繋がり

(『満州帝国史』太田尚樹著から抜粋)

関東軍の特務機関は、諜報、宣撫工作、作戦地域での後方攪乱、偽情報の流布、謀略工作、阿片の密売と、幅広く活動した。

関東軍の特務機関は6班で構成され、総務班、情報班、特務班、軍事班、宣伝班、政治班に分かれていた。

その活動範囲は後には南方に広がり、マレー・シンガポール作戦で活動した例もある。

特務機関員だった中田光一によると、内容を表に出せないので資料は残さなかったという。

正規の機関員の下には、補助機関員や「細胞」と呼ばれる協力者がいた。

正規機関員の上級者には、関東軍の機密費から給料が支払われた。

それ以外の者は満鉄から支払われたが、「ヒラでも、満鉄の部長クラスの金額が支給された」と中田光一は言う。

ハルピンや奉天などに特務機関の中心が置かれ、その下で各地に支部が置かれた。

支部が置かれたのは、大連、満州里、ハイラル、牡丹江、チャムス、三河、興安、東安、豊原、綏芬河、熱河、通化、間島などだ。

ハルピン特務機関は、1940年以後は「関東軍情報部」の名称になった。

どの支部も、表の看板は「〇〇公司」のように貿易会社を装ったりしていた。

機関員たちも表向きは普通の生活をしていた。

特務機関が深く関わっていたのが、阿片の売買である。

満州国政府の総務長官(政府の実質的なトップ)を務めた古海忠之は、「満州国は、関東軍の機密費作りの巨大な装置だった」と言う。

関東軍にとって裏金の源は阿片であり、日本陸軍全体にとっても阿片が裏金の源だった。

防衛省の防衛研究所・戦史資料室には、関東軍が1937年12月に作成した『蒙彊方面の政治指導の重要案件綴』がある。

そこには東条英機・関東軍参謀長から、松井太久郎・張家口特務機関長に宛てた電文がある。

「阿片と塩の政策は、蒙彊方面の財政の捻出のため、敵側に奪われないように留意されたし」

この時の英機は、北支那方面軍の連隊を動かして、蒙彊方面で作戦を展開していた。

その部隊は「東条部隊」とも呼ばれたが、「東条英機が指揮する蒙彊作戦は、阿片の栽培地を確保するためであった」と言われている。

蒙彊とは、内モンゴルと万里の長城の北側地方を指し、現在の河北省に当たる。
かつては熱河省とも呼ばれた。

その地では春になると、広大な大地に白いケシの花が咲く。

ケシは、初夏になると花弁が落ち、次に花びらが落ちて、青い実を付けて「ケシ坊主」になる。

そのケシ坊主から白い乳状液を採るが、空気に触れると褐色のゴム状になる。

それを自然乾燥させたのが「阿片煙土」で、精製して黒色の軟膏状にになったのが「生阿片」、さらに精製して純度を高めて出来る無色の結晶が「モルヒネ」である。

1938年5月に東条英機は満州を離れ、日本に戻って陸軍次官になったが、阿片との繋がりを続けた。

それを示すのが同年10月19日付の、山下奉文・北支那方面軍参謀長から英機に宛てた電文である。

「陸軍次官 東条英機殿。

 押収した阿片を天津に還送し、売却などをするも、
 匪団が奪回の企図をしている。

 極秘かつ迅速に処置するのが適当だ。

 阿片の売却代金の用途は、中華民国・臨時政府に所属する
 軍隊用の兵器購入に充てることに変更する。」

38年9月10日付の「阿片の処分に関する件」という、寺内寿一・北支那方面軍司令官から板垣征四郎・陸軍大臣に宛てた電文には、こうある。

「山西省・吉県において押収せし阿片は、北支の野戦倉庫に
 還送して保管中。

 その数量は、3303キログラム余りで、見込み価格は
 1336000円なり。

 本品は、飛行場整備などの土地買収の財源として、
 中華民国・臨時政府に交付したいので、許可してほしい。」

上の電文を見ると、南京の汪兆銘・政権(中華民国・臨時政府)を支援するための財源は、阿片売却で得ていた事が分かる。

戦後になってGHQが調べた資料でも、東条内閣から汪兆銘の南京政府に3億円の借款を決めたことが書いてある。

そこには阿片のあがりが、上海や大連の横浜正金銀行や、台湾銀行に預けられた事も記されている。

上記のように、日本陸軍の要である陸軍大臣や陸軍次官に対して、中国大陸での阿片ビジネスが詳細に報告されていた。

この事実は、内地の陸軍も阿片の収益に頼る部分が大きかった事を物語っている。

蒙彊から、関東軍または北支那方面軍が買い上げた(もしくは強奪した)阿片は、満州国政府を通じて売られていた。

その証拠となる文書が、防衛省の防衛研究所・戦史資料室に保管されている。

1937年9月7日付で、関東軍司令部の吉田・第三課長から、松井太久郎・張家口特務機関長に宛てた電文である。

「張家口にある阿片は総て、満州国にて買い取る希望があった。

 他に流用しないよう、また各方面からなるべく多量のものを
 集めるよう、ご配慮されたし。」

これに応えて、同年11月3日に松井太久郎から、植田謙吉・関東軍司令官に宛てて電文が送られた。

「阿片は急速な輸送を必要とする。

 神速にする指導を要すため、暫行的に実施したい。」

こうした阿片の輸送を担当したのは、満鉄であった。

(2020年10月12日に作成)


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