(『満州帝国史』太田尚樹著から抜粋)
日本がつくった満州国の政府は、阿片の買い上げと販売に深く関わっており、政府を仕切る『総務庁』がその本丸だった。
総務庁の中心は、星野直樹・長官、岸信介・次長、古海忠之・主計処だった。
さらに満州国の阿片ビジネスには、満鉄や満業(満州重工業)なども関わっていた。
もちろん関東軍はそのビジネスの要である。
古海忠之は、後には総務庁・次長も務めた人だが、著書『忘れ得ぬ満州』の中で、当時を回想している。
それによると、岸信介、甘粕正彦、満業トップの鮎川義介たちは、新京(満州国の首都)のヤマトホテルの特等室で、毎日のように顔を合わせていた。
岸信介の部下である椎名悦三郎、古海忠之、青木実、飯沢重一なども、メンバーに加わっていた。
その会合の中心は岸信介と甘粕正彦で、上海の邦字新聞の乗っ取りや、日本内地で満州をいかに宣伝するかという、謀略工作も話し合っていた。
1945年の日本の敗北時に、総務庁・次長になっていた古海忠之は、「自ら陣頭指揮して大きな穴を掘らせ、阿片を埋めた」と語っている。
満州国政府は、蒙彊のケシ栽培農家を取り仕切る組織から、政府の専売局が阿片を買い上げていた。
奉天の特務機関で働いた中田光一によると、生産者と買い取り側の清算方法は、物々交換のバーター取引だった。
買い上げた阿片は、阿片煙膏に精製してから、法外な価格で阿片吸飲所や愛飲者に売った。
その売り方は、いくつかのダミー会社を経て、最終的には満州ゴロや支那ゴロが販売の末端にいる図式である。
満州ゴロや支那ゴロに報酬を与えるのは、甘粕正彦の担当だった。
日華事変(日中戦争)が本格的に始まると、阿片の販売先は満州国内だけでなく、日本軍が占領した中国本土にも拡がった。
日本陸軍の参謀だった者は、こう証言する。
「結果的に日華事変(日中戦争)が長引いたのは、阿片が原因です。
なにしろ日本軍は、敵方に金を貢ぎながら戦争していたのですから。
共産党軍にも国民党軍にも阿片は食い込んでいた。」
日本と中国の戦争といっても、阿片ビジネスを通して双方は底辺で繋がり、日本側は莫大なカネを(阿片の取引を通じて)敵方に渡していたのだ。
日本の阿片ビジネスは、インドやペルシャから阿片を輸入して、上海や香港を拠点にして(上海や香港で陸揚げして)中国や南方の国々に売るルートもあった。
これには『興亜院』という、1938年に設立された国家機関が絡んでいた。
興亜院は、中国大陸で日本軍が戦線を拡大し、占領地が増えたのに伴って、占領地の政務や開発事業を指揮するために設けられた。
大平正芳(後に首相)や伊藤正義は、若い頃は興亜院の蒙彊連絡部や経済部で働いた。
興亜院は、阿片の流通組織として『宏済善堂』という問屋を上海に設立したが、この組織を仕切ったのが「阿片王」を言われた里見甫である。
宏済善堂は外国から阿片を輸入していたが、これにはインド等を植民地にしていたイギリスが深く関わっていた。
イギリスは、植民地のインドから軍艦を用いて上海に阿片を陸揚げした。
阿片の輸入には、三井物産、三菱商事、大倉商事といった財閥会社も参入していて、主にペルシャ産やトルコ産の阿片を船で運び、上海に陸揚げしていた。
上海での窓口は(上海で阿片を受け取るのは)、宏済善堂だった。
上海で活動する里見甫の背後に居たのが甘粕正彦であり、正彦の背後に居たのが日本軍や、岸信介や古海忠之といった満州国の官僚だった。
阿片取引の現場に民間人の甘粕正彦や里見甫を使ったのは、関東軍(日本軍)と満州国政府が表に出ないためだった。
甘粕正彦は、上海のブロードウェイ・マンション・ホテルを根城にしていて、阿片取引の他にも為替の操作で巨利を得ていた。
日本が太平洋戦争を始めると、マレー半島やシンガポールなどの南方の占領地でも阿片ビジネスを展開した。
満州国政府は、阿片の「専売局」を設けて、阿片販売の専売制(独占)を布いていた。
同政府は、表向きは禁煙総局を設置して阿片を禁止し、さらに厚生部が阿片中毒者の治療と救済もした。
要するに、阿片ビジネスは満州国の国策であり、国家ぐるみの犯罪だった。
国際連盟は阿片諮問委員会をもち、満州国の阿片ビジネスをかなり把握していて、日本の孤立化を加速させた。
満州国の阿片ビジネスを代表していたのが、岸信介だった。
満州国政府の阿片を売る部署は、財務部の中の専売総局だが、この部署を作ったのは岸信介である。
信介はいくつもの特殊会社をつくり、そこを介してカネを浄化する方法を採った。
満州国政府の総務庁・法制処参事を務めた木田清は言う。
「岸信介ほど、たくさんの法律と特殊会社を作った人もいなかった。
なにしろ満州人たちから『法匪』と呼ばれていた。」
満州国政府の阿片の専売は、財政部の管轄下から民政部に移した1937年あたりから、不透明さを増す。
日中戦争が本格化したのも理由だろうが、この組織替えをした主役が岸信介・総務庁次長だった。
阿片の流れは、まず生産者から買い上げる位置に里見甫がいて、里見甫と買い手の満州国政府の間に甘粕正彦がいた。
甘粕正彦は、政府と消費者の間にも位置して、複数のダミー会社を通して取引していたという。
岸信介は、「汚水(汚れたカネ)は濾過してから飲め」を持論にしており、ダミー会社が濾過装置(カネの洗浄装置)になっていた。
阿片ビジネスの現場を仕切った甘粕正彦は、東条英機の腹心でもあり、英機が首相の座に昇っていくのを正彦が財政面で支えた。
正彦が陸軍士官学校の時代に、そこの教官だったのが英機で、英機は何かと正彦に目をかけていた。
その事に正彦は恩義を感じていたのだ。
岸信介や甘粕正彦が阿片ビジネスで稼ぐ額がいかに大きかったかを、物語るエピソードがある。
1937年末のある日、岸信介の執務室に甘粕正彦が訪ねてきて言った。
「急に1000万円が必要になりました。お願いします。」
今の金額に直せば、100億円に近い額だが、信介はあっさりと「いいでしょう」と言って引き受けた。
同席していた古海忠之は驚いたと語っている。
岸信介らは、蒋介石の国民党とも阿片の取引をしていた。
信介は戦後になると、長く台湾ロビイストをして知られ、蒋介石と親しかった。
両者の関係をさかのぼれば、甘粕正彦(と里見甫)を仲介役にした阿片取引での繋がりがあった。
上記した岸信介から甘粕正彦に渡された1000万円は、排英工作に使われた。
正彦は南方にもしばしば出掛けていて、英国の植民地のマレー半島で、反英組織の「マラヤ共産党」に資金を提供して、ゲリラ活動をさせる工作を行っていた。
この工作は、合わせて英国がインドから持ち込む阿片の元締めを押さえることも、大事な任務だった。
1937年の末になると、すでに日本軍のマレー半島やシンガポールを攻撃するプランは動き始めていた。
日本陸軍は現地に駐在する商社員に、気候・道路事情・集落の数・生活環境などを調べさせた。
特務機関の者も送り込まれ、中国人に化けて暮らしつつ、情報収集した。
日本軍は原油を求めて、蘭印(インドネシア)に熱い視線を注いでいた。
満州国政府の阿片ビジネスの歳入は、建国した1932年から39年までの8年間で、毎年ほぼ倍増した。
39年には、32年の10倍の1.2億円に達した。
その他にも阿片収入は、関東軍に入ったカネや、甘粕機関などに入ったカネや、満州中央銀行から上海の横浜正金銀行に送金された分がある。
だから全体の規模ははるかに大きい。
満州中央銀行から、阿片ビジネスのあがりの一部が、上海や大連の横浜正金銀行に送金された事は分かっている。
その先は、日本国内の陸軍の秘密口座に送金されたと推定される。
阿片の利益は、他にも現ナマで輸送しており、日本の陸軍機を使って、満州各地から東京の立川飛行場に運んだとされる。
GHQが、陸軍省・兵務局長だった田中隆吉を尋問した調書がある。
隆吉は、1946年2月25日に尋問官のハメル少佐にこう語っている。
「北支那での麻薬売買は、大使館内にあった大東亜省・連絡事務所の前身である北京の興亜院・連絡部によって統制されていました。
その部局の長官が、北京に駐在した塩沢清宣・中将でした。
塩沢は、東条英機・大将の一番の子分で、里見甫の親友でもありました。
塩沢は北京から、東条へしばしば資金を送ってました。
上海地域で使用される阿片は、すべてが北支から供給され、多額の金が塩沢の手元に蓄えられました。
塩沢の下で、専田盛寿・少将という私の友人が働いてました。
専田は私に、『しばしば飛行機を使って東条に金を送った』と語り、ひどく腹を立てていました。」
田中隆吉は1946年3月16日の尋問でも、阿片の利益が東条英機に流れたと語っている。
「東条英機は、甘粕正彦を支援・保護しており、甘粕は阿片を扱う専売局と密接だった。
甘粕は終戦時まで、東条の政治顧問を務めて、東条を支援するために多額の金を提供した。
甘粕がどのように援助をしたかは、東条以上に夫人の勝子が知っています。
東条夫人は、あたかも政治家のようでした。」
甘粕正彦が、満州から東京に来る度に、世田谷区用賀の東条邸を訪れたのは事実で、持ってきた金は勝子夫人のほうがよく知っていたわけだ。
細川護貞の書いた日記『細川日記』は、1944年10月15日の記述にこうある。
「鳩山(一郎)が、東条の持つ金は16億円なりと云ったところ、(近衛文麿)公は主として阿片の密売による利産と言い、共謀者の名前まで挙げた。
私も何かの会合で、東条が10億円の政治資金を持っていると聞いた。」
(2020年10月12&17日に作成)