タイトル阿片(アヘン)とは何か
阿片ビジネスの歴史

(『阿片王 満州の夜と霧』佐野眞一著から抜粋)

阿片(アヘン)は、ケシの果実から作られる。

東ヨーロッパが原産のケシは、5~6月に直径10cmほどの花を咲かせる。

花は1日でしぼみ、その後に楕円状の固い果実ができる。

果実の表面を小刀で傷つけると、乳液状の分泌物が出てくる。

その分泌物を集めて天日にさらし、固形化したものが「生アヘン」である。

生アヘンに水を加えて、煮詰めて練膏状にしたものが、「アヘン煙膏」である。

それを煙槍と呼ばれるパイプに詰め、煙燈というランプにかざして燃焼させ、発生する煙を吸飲する。

阿片は、煙草のようにどこでも喫するものではなく、普通はアヘン炕(かん)と呼ばれる寝台に横たわって吸う。

周りに美術品を並べて、春画でも眺めながら吸うのが、アヘン通とされた。

生アヘンには8~12%のモルヒネが含まれ、その麻薬作用で桃源郷に遊ぶかのような幻覚に襲われるという。

なおヘロインは、モルヒネを加工して純度を上げたものである。

阿片の中毒者として有名なのは、張学良や、溥儀の妻・婉容である。

極秘と表紙に書かれた『麻薬問題の資料』には、アヘン中毒者の告白が13例、書かれている

そのうちいくつかを紹介する。

25歳の満鉄社員は、売春窟で中国女から勧められて、アヘンを吸飲した。

「眠気を催して、総てが夢のような心地である。

この夢は自分の天下で、何事もすらすらと我に出来ぬことはない。

ヘロインを吸い続けていると、身体は衰弱して痩せ細り、自分でもどうしてかと思うほど不決断になった。

責任の観念も無くなって、嘘を言うことが1つも悪いと考えなくなった。

(クスリの切れる)時間がくると苦しくなって、こっそり便所などに行って飲まずには居られない。
この苦しさは、生欠伸が出て、涙が出て、頭がくしゃくしゃし、口では到底言えない。」

37歳の満洲炭鉱の社員も、売春窟で女から勧められて始めた。

「その女の言うには、阿片またはヘロインを吸ってから1時間くらい後に性交すると、天国に遊ぶ感覚になると、盛んに宣伝する。

好奇心から用いる気になり、女と吸った。

女の言うように、ヘロインを吸って2時間ぐらいで性交した時が、非常に時間を長く要して、私は天国に遊ぶ感じがした。

非常に快感を味わい、桃源郷に遊ぶとはこの事かと思った。

しかし中毒になると、欠伸や涙が出るし、身体はだるくなって目はくぼみ、実にみじめな姿になった。

寝たきりになり、下痢や不眠もずっと続いた。」

支那浪人の下で阿片の運搬をした34歳の男は、阿片の禁断症状に襲われた時をこう表現している。

「骨と肉の間に風が入ったようで、骨を鳥の毛でこそぼられる様な感じがし、どうしても我慢できない。」

阿片の中毒者は共通して、果物が猛烈に欲しくなるという。

阿片は性欲と結びついていて、その結果、男は精力を使い果たして腹上死する例が多い。

表紙に「秘」という赤い判が押された、『東亜共栄圏建設と阿片対策』という文書がある。

満洲国の禁煙總局が、1943年に出したものだが、こう述べている。

「支那民族(中国人)が阿片に惑溺して、民族の衰亡を招くに至った原因は、イギリスの老獪かつ無残な阿片を使った侵略にあった。

イギリスに阿片戦争で敗れた支那は、政治的にも経済的にも破綻し、半植民地に転落した。

支那に阿片を撒き散らしたのは、イギリスの阿片の密貿易にあった。」

この文書は上のように述べた後、1800年から阿片戦争が始まる1840年の直前までの、イギリスから中国・広東の市場への阿片密貿易の推移を載せている。

それを見ると、1800~1810年までの密貿易は3千箱だったが、1835~39年には3万5千箱に膨張している。

同文書はこう指摘している。

「清国政府は密輸入を防ぐべく、取り締まりを厳しくしたが、それが阿片戦争を招き、清国は(英仏軍に)惨敗した。

この戦争の結果、イギリスは武力を背景に阿片貿易を許容させた。

かくして阿片は、洪水のごとく全支那に蔓延した。

阿片の輸入で年に4700万両の銀が、清国からイギリスにわたる事になった。

支那は銀流出を防ぐため、自国内でケシ栽培を奨励するほかなかった。
道光帝は涙を呑んでこの手を打った。

その結果、支那は無制限のケシ栽培と、阿片の氾濫になった。

だがイギリスからの阿片輸入は激減していった。」

同文書は、1943年時点で「支那(中国)は最低で見積もっても全人口の3%が阿片中毒者である」と推定した上で、次のように結んでいる。

「4.5億人の総人口のうち、中毒者は1350万人という数字が一応あげられる。

中毒者が生産地の安い価格で買ったと考えても、阿片の売上総額は40億5千万元になる。」

中国では、国民党の政府が樹立してからも、阿片の取引は減らなかった。

地方に残存する軍閥たちは、阿片を収入源にしており、しばしば阿片の争奪が内戦の火種となった。

軽量で高価な阿片は、通貨と同等に見なされるほどだった。

これに対し日本では、中国での阿片禍を反面教師にし、厳禁措置が採られた。

しかし日本政府は、日清戦争で勝利して台湾を領土にすると、台湾でケシ栽培をして、阿片ビジネスを始めた。

当時の内務省・衛生局長の後藤新平は、台湾で阿片を吸う習慣があるのに注目し、「政府が専売すれば巨額の収入が得られる」と主張した。

そして初代の台湾総督となった児玉源太郎の命令を受けて、台湾総督府の民生局長となった後藤新平は、阿片専売を実施した。

こうして大日本帝国は、植民地での阿片専売が基本方針となった。

ちなみに後藤新平は、初代の満鉄総裁にも就いている。

日本政府が国策とした、植民地での阿片専売は、最も大がかりに行われたのは傀儡国家の満洲国だった。

満洲国での阿片専売の利益は、満洲国政府の財政の基礎資金となり、日本軍の特務機関や憲兵隊の謀略資金にもなった。

満洲国は、阿片の上に築かれた砂上の楼閣と言っていい。

(2024年1月10、23日に作成)


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