タイトル馬占山は1度日本に降伏するが、再び抗日戦を行う

(『馬占山と満州』翻訳・陳志山、編訳・エイジ出版から抜粋)

関東軍は断続的に、黒竜江省で抗日戦を展開する馬占山に対し、降伏を勧告した。

ついには板垣征四郎・関東軍参謀長が馬占山に会って説得することにし、1931年12月7日に海倫を訪ねた。

征四郎が提示したのは、黒竜江省の軍・政を分割し、省長には張景恵を就けて、馬占山が軍権を握るという内容だった。

ただし、省内の鉱山・鉄道・森林の権益は日本が得て、満州の国防も日本軍が担当する条件付きだった。

占山はこの条件を受諾し、12月10日に張景恵との交渉に入った。

張景恵は、豆腐屋から馬賊になり、張作霖の部下になって出世した人である。

満州事変後には、吉林省長の煕洽と共に国民政府との関係を断っていた。

馬占山と張景恵は合意に達し、1932年1月6日に景恵は黒竜江省・省都のチチハルに入り、翌7日に「黒竜江省・自治政府」を樹立した。

占山も1月22日にチチハルに入り、こうして黒竜江省は日本軍の手に落ちた。

その一方で、1月30日に丁超と李杜は、部下を率いてハルビンの吉林省軍に合流し、ハルビンに「抗日自衛軍」を設立した。

2月4日に関東軍は、抗日自衛軍を攻撃した。

丁超らはハルビンの西に撤退して、馬占山に援軍を求める電報をした。

馬占山は秘かに苑崇谷の旅団をハルビンに向かわせたが、関東軍の待ち伏せにあい、多数の死傷者を出した。

ハルビンが関東軍に占領されると、馬占山は副官を連れてハルビンに行き、関東軍の多門二郎・陸軍中将に会見を申し入れた。

そして占山は、張景恵と提携するための条件として、3つを求めた。

①関東軍は領土の野心をもたない

②関東軍は黒竜江省に駐屯しない

③関東軍は黒竜江省の内政に干渉しない

多門二郎はこれを了承した。

関東軍は北満州を治めるために馬占山の協力を求めており、満州国を創る構想も持っていた。

馬占山は、1932年2月16~17日に行われた満州国の建国会議に出席し、黒竜江省の省長に任命される事になった。

だが、建国の前段階として2月17日に黒竜江省の独立宣言を起草する時、馬占山は頭痛を訴え、数回にわたって嘔吐した。

占山はその夜の招宴には出席せず、18日の午前6時50分に列車で北満州に帰っていった。

馬占山は黒竜江省長に着任するため、23日にチチハルに向かった。

24日にチチハルで、関東軍の肝いりで占山の就任式が行われた。

だが占山は胸中で、秘かに満州国からの脱出を計画していた。

3月9日に長春(新京)で行われた、溥儀の執政への就任式に、馬占山も出席した。

12日に占山はチチハルに帰ったが、その途中で部下の謝珂はソ連領に逃亡した。

この事件をきっかけに、黒竜江省顧問の村田稔磨らは、占山への干渉をさらに強めた。

特務機関員の林義秀や村田稔磨らは、勝手に行政文書を作成し、占山に調印を要求した。

馬占山は、国際連盟のリットン調査団(満州事変を調査する一団)が来満する時が、脱出の好機と考えた。

そして3月31日の夜に、占山は軍用トラック20数台と自動車6台に、黒竜江省の公金や兵器を積んで、チチハルを脱出した。

すぐに抗日義勇軍を率いている丁超と李杜に対し、「拝泉県城で会合したい」と電報で連絡した。

4月3日に拝泉で、馬占山は各義勇軍の将領と会議し、抗日の作戦を練った。

占山は後援軍となる事にし、北上して4月7日にソ連国境の黒河に到着した。

そして黒河に「黒竜江省政府」を設立した。

馬占山は4月9日に、張学良に宛てて「日本軍に対する宣戦布告」を要請した。

しかし学良は、「国際連盟の調査団に説明して、日本を満州から追い出す」と返事するだけだった。

4月から5月にかけて、満州の奉天に国連のリットン調査団が来た。

馬占山はリットン調査団に北満州を訪れるよう求めたが、調査団は無視した。

当時、黒竜江省・東部の抗日義勇軍は7万人で、馬占山軍は5万人だった。

馬占山は、日本軍と決戦するため、この兵力を集結させた。

1932年5月初め、馬占山軍は会議を開きハルビンの奪回を決議した。

5月15日に馬軍は、ハルビンに向かって進軍を始めた。
馬占山が総司令、呉松林が副司令となった。

これに民衆のゲリラ部隊も応じたが、ハルビンの近くまで来た時、馬軍の程志遠が日本に買収されて寝返った。

馬軍は、関東軍・張海鵬軍・程志遠軍の連合軍に攻撃され、敗退した。

6月1日以降、情勢が急変した。

関東軍と程志遠軍が海倫に進攻し、6月3日に海倫は関東軍の手に落ちた。

6月12日に海倫より10kmの所で、馬軍と関東軍が激戦し、日本兵は300余が戦死し、240人が捕虜となった。

馬軍はこの後チチハルに向かったが、7月14日から3日間、関東軍と激戦を交えた。

関東軍は、逃げる馬軍を追撃して、綏稜県にて包囲した。

この地域は沼地が広がり、長雨のため大いにぬかるんでいた。
このため馬軍は沼地にはまり、待ち構えている関東軍に攻めたてられた。

馬軍は大敗して、馬占山の周りには5人の将士が残るだけとなった。

占山はこの時のことを、「私たちは山中に隠れ、探索に来た日本兵を8名射殺し、血路をひらいて重囲から脱出した」と回想している。

馬軍が負けた戦場で、日本軍は馬占山の馬や鞍を発見した。

これにより関東軍司令部に「馬将軍の死亡」と報告されたが、戦死したのは参謀の韓述彭だった。

馬占山らは、大青山の山中に潜伏し、草や樹皮で飢えをしのぎつつ、2ヵ月近くをさまよった。

山に住む蒙古人の案内で、ようやく密林から脱出して竜門県に入った。

1932年10月16日に、馬占山や蘇炳文らは、改めて義勇軍を率いてチチハルを攻撃したが、関東軍によって退けられた。

占山は拝泉に逃れたが、12月初めに関東軍は1.3万の兵と戦車で進攻してきた。

占山は敗れて、12月7日にソ連領へ逃げた。

馬占山と蘇炳文は、ソ連政府に受け入れられて、ソ連政府の指示でアムール州のトムスクに着いた。

2人の率いる兵は3千弱で、同行する家族を含めると3千5百ほどだった。

1933年1月11日に、抗日義勇軍を率いる李杜もソ連領に入り、14日には王徳林の義勇軍もソ連領に入った。

この2人の軍は6千5百ほどだったが、同じくトムスクに入った。

彼らが来たことでトムスクの町は一気に賑やかになったが、1万人をどう養うかが問題となった。

ソ連政府は、中国政府(国民党政府)と交渉して、「抗日軍の生活費は中国政府が出す」と認めさせた。

当時の中国政府は、1929年の中東路事件(張学良軍が中東鉄道の回収を強行して、ソ連と紛争した事件)以降、反ソの方針で断交していた。

しかし満州事変後に、ソ連が日本の侵略に反対した事で、中ソ関係は改善しつつあった。

1932年の初めから、中ソは交渉を始めて、32年12月12日にジュネーブで国交回復に調印した。

だから馬占山らがソ連領に逃げ込んだ時、ソ連政府は公然と援助したのである。

関東軍は、馬占山がソ連にいると知ると、ソ連政府に引き渡しを要求した。

ソ連はこれを拒否した。

中国政府は33年4月8日に、ソ連政府に20万・中国元を支払い、義勇軍の生活費を清算した。

そして中ソ政府は、義勇軍の帰国について次の取り決めをした。

①兵士たちは新疆(シンチアン)を経由して帰国させる

②民間人(兵士の家族)は、ソ連のウラジオストックから海路で帰国させる

③馬占山ら高官は、安全のためヨーロッパ経由で帰国させる

だが①のシンチアンから帰国する者たちは、大きな困難に遭うことになった。

シンチアン省は、1933年4月12日の軍事クーデターで、政権が盛世才の手に移った。

盛世才は、かつて日本に留学して軍事を学んだ人である。

4月12日にクーデターが起きた時、すでに義勇軍の兵士たちが到着していた。

クーデターの首謀者である陳中や李笑天らは、義勇軍の鄭潤成を督弁に推挙したが、盛世才は「彼らは帰郷の途次にある」と言って、自分が督弁に就いた。

その後、世才は義勇軍を帰郷させず、33年7月にシンチアン軍に編入してしまった。

それから10年で、抗日を主張する者たちはことごとく殺された。

一方、馬占山らはモスクワに向かい、そこからヨーロッパ経由で33年6月末に香港に着いた。

(2021年6月3~4日に作成)


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