(『馬占山と満州』翻訳・陳志山、編訳・エイジ出版から抜粋)
1931年9月に満州事変を日本軍が起こすと、中国の国民党政府(国民政府)は国際連盟に「日本の侵略をやめさせるべし」と訴えた。
国民政府の蔣介石は、国連の介入による平和的な解決を方針とした。
実のところ蔣介石は、「まず中国共産党を倒してから、日本と戦う」という方針を採っていて、瑞金にある共産党の政府に対して包囲戦を展開していた。
31年9月23日に、国連は中国代表の提訴に応えて、理事会を招集して討議した。
しかし英国代表のR・セシルの「日本を信頼する」との発言もあって、日本の出した早期撤兵の声明を了承する決議を行った。
日本軍は、列強国の目を満州から逸らすために、上海で謀略工作をして、『第一次・上海事変』を起こした。
こうして上海で日本軍と中国軍の戦闘が始まった。
(第一次・上海事変は、別ページで取り上げています)
国連の理事会は、満州での紛争解決のため、「調査委員会」を派遣することにした。
英国のリットン卿を委員長とし、米国のマッコイ陸軍少将、フランスのクローデル陸軍中将、ドイツのジュネー博士、イタリアのアルドヴァンデイ伯爵の5人で構成された。
リットン調査団は、まず日本に向かい、1932年2月29日に東京に到着した。
そして犬養毅・首相らと会談したりし、3月11日に神戸から上海に向かった。
一行が滞日中の3月5日に、三井財閥のトップである団琢磨の暗殺事件が起きた。
また調査団の来日に合わせて、上海事変の停戦(3月5日)と満州国の建国(3月1日に建国宣言)も行われた。
3月14日にリットン調査団は上海に着き、上海事変の戦場を視察した。
27日には南京に入ったが、迎えた国民党政府は丁重に接待した。
調査団と会見したのは、林森・主席、汪精衛・行政院院長、蔣介石・軍事委員長らだった。
調査団は国民党政府から資料を受け取ると、九江・漢口に向かい水害地域を視察した。
4月9日に調査団は北平(北京)に着き、張学良らの歓迎を受けた。
1週間後に調査団は奉天に着き、6週間の滞在をした。
この時に抗日戦を行っている馬占山は、満州の北西部で日本軍と戦い、日本が言っている「満州国を人民が支持している」が事実でないと知らせた。
馬占山は調査団に対し、(自分の居る)北満州を訪れるよう求めたが、調査団は回答さえしなかった。
1932年10月2日に、リットン調査団の報告書が公表された。
その内容は、満州事変を日本の正当な自衛手段と認めず、満州国も認めなかった。
しかし満州における日本の権益は認めて、「国際連盟の監視の下で、改めて日中両国が新たな政治組織を樹立すべき」と勧告した。
(2021年6月4日に作成)