(『馬占山と満州』翻訳・陳志山、編訳・エイジ出版から抜粋)
満州で抗日戦を行ったが敗れて、ソ連領に逃れた馬占山。
彼は1933年6月末に帰国すると、国民党政府の蔣介石に会って、「抗日戦をしたい」と伝えた。
蔣介石は、満州事変を日本が起こして満州国がつくられてからも、「先に安内、後に攘外」(先に国内の共産党や軍閥を倒してから、外から来た日本軍を倒す)との政策を堅持し、日本軍の侵略に対して「無抵抗主義」を採っていた。
だから介石は、馬占山を軍事委員に任命したが、何の支援もしなかった。
剿共戦(中国共産党軍との戦争)に熱中する介石にとって、抗日戦をしたい占山はむしろ邪魔だったのである。
馬占山は上海で無為の日々を過ごしたが、満州出身の実業家・杜重遠と親しくなった。
重遠は上海で抗日と救国を訴えていた。
数ヵ月後に国民党政府は、「蔣介石の意向で、馬占山に莫干山へ休養に行ってもらう」と通告してきた。
そして上海の青幇と赤幇のボスである黄金栄と杜月笙らが、同行することになった。
(※蔣介石は若い頃は青幇の構成員で、裏社会と深い繋がりがあった人である。)
馬占山は、同行者に杜重遠夫婦も加え、莫干山にある杜月笙の別荘に行った。
馬占山は1934年8月に、家族の住む天津に移った。
ほどなく杜重遠夫婦も天津に引っ越してきた。
占山はのんびりした日々を送ったが、日本軍の特務機関は常に尾行をつけて暗殺の機会をうかがった。
占山はイギリス租界に住んでいたので、機会はなかなか無かったが、次の暗殺作戦が実行された。
1935年の初め、5人の暗殺団が、馬占山らが麻雀をする所に手榴弾を投げ込むことになった。
その麻雀は、河北省長の于学忠も加わっており、ゲームの最中に天津市警察の局長が飛び込んできて、「日本の特務機関が手榴弾で爆破する」と告げた。
これは暗殺団の1人が密告したからで、密告者以外の4人はすぐに逮捕された。
于学忠は密告者に5百銀元を与えて、残りの4人を銃殺した。
馬占山の長男・馬奎は、ある日にダンスホールで踊っている時に、乱入してきた数人に誘拐された。
これは日本の特務機関に買収された石友三が首謀者だった。
1ヵ月後に石友三は、「馬奎は私の軍営にいる。百万元の身代金を払えば無事に帰す」と知らせた。
馬占山は「馬奎は悪事を重ねて勘当している。ついては馬奎に対し一切の責任を負わない」と新聞に発表した。
この策は奏功し、誘拐の企みは失敗に終わった。
(2021年6月6日に作成)