(『日中戦争全史・上巻』笠原十九司著から抜粋)
石原莞爾が関東軍の参謀に赴任してきたのは、張作霖の爆殺事件の4ヵ月後の1928年10月だった。
張作霖爆殺の首謀者だった河本大作の推薦があったといわれている。
河本大作が爆殺事件後に訴追されなかった事は、「謀略で事変(戦争)を起こしても処分されない」という確信を石原莞爾に与えた。
張作霖爆殺の真相を、日本政府も政党もメディアも国民に隠したが、それが満州事変に繋がるのである。
石原莞爾は、「満蒙(満州と蒙古)を領有して、資源を開発・確保し、日本の国防力を強化しよう」と考えた。
関東軍参謀の1人である板垣征四郎は、莞爾の考えに共鳴して、一緒に謀略の計画の準備を始めた。
莞爾はまず、参謀たちで旅行を行い、満州の各地を検分した。
さらに陸軍中央に要求して、特別な大砲を入手し、それを奉天城に向けて照準を定めた。
1931年9月18日の午後10時30分ごろ、関東軍は奉天駅から約7.5kmの柳条湖で、満鉄の線路を爆破した。
そしてすぐ近くにある中国軍の兵営を攻撃し占領した。
この時、中国東北部(満州)を治める張学良は、蒋介石の命令で主力軍11万を率いて北京周辺に出動していた。
石原莞爾や板垣征四郎たちは、この隙を利用して謀略を発動したのである。
朝日新聞の1931年9月19日の号外は、午前7時の発行とあるが、これを読めば「柳条湖事件」が関東軍の謀略だと分かる。
まず「軍司令部が奉天に移る」という見出しで、旅順にあった関東軍の司令部が19日の朝に奉天に移され、関東軍司令官の本庄繁が幕僚を従えて奉天に急行したと伝えている。
もしこの事件が、突発事件ならば、まず真相究明にあたり、それから対応策を考えるはずだ。
事件と同時に司令部を奉天に移すという手際の良さは、誰が線路爆破をしたか自ら明かすものだ。
次に「我が軍は奉天城内に入る」という見出しで、関東軍が奉天城を攻撃して、19日午前3時に城内に進入したとある。
前述したように、関東軍は奉天城に向けて大砲を設置していた。
線路爆破後すぐに奉天城攻撃を始めたと、これで分かる。
次に「在朝鮮の2個師団に非常準備命令」との見出しで、事件発生と共に、朝鮮にいる日本軍2個師団を増援として出動させる準備命令を下した、とある。
事前に関東軍司令部と朝鮮軍司令部の合意がなければ、出来ない事である。
柳条湖事件の報を受けた若槻礼次郎・内閣は、緊急閣議をひらき、「事態をこれ以上は拡大しない」という方針を決定した。
これは本庄繁・関東軍司令官に伝えられたが、石原莞爾らは従わず、吉林特務機関が謀略を起こして、日本人居留民が危ないという不穏状態をつくった。
そして居留民の保護を理由にして、9月21日に吉林に出兵した。
これを見た朝鮮軍司令官の林銑十郎は、準備させていた朝鮮軍を独断で中国に越境させ、奉天に向かわせた。
この出兵は、裕仁(昭和天皇)にも日本政府にも無断で行い、明らかに天皇の統帥権をないがしろにしたものだった。
だが若槻礼次郎・首相は「出たものは仕方ない」として、出兵の経費支出を承認してしまった。
裕仁も、「致し方ないが、将来は充分注意せよ」と述べ、追認してしまった。
この無能な決定により、以後も現地軍が独断専行していき、裕仁と政府が追認するパターンが繰り返される事になる。
そして日本の侵略戦争は拡大の一途をたどり、日中戦争は「15年戦争」となる。
国民政府(中国政府)のトップにいる蒋介石は、日本軍の満州進軍に対して、「安内攘外」(国内を安定させてから日本と戦う)との政策を採り、張学良に「不抵抗で行け」と指示した。
蒋介石が北伐で中国を統一させた後、地方軍の削減・整理をした事から、有力な地方軍閥が連合して「反蒋介石」で立ち上がった。
このため介石は、その連合と内戦していた。だから「安内攘外」なのである。
介石は、「いま日本と戦ったら負ける」と判断し、戦力が充実するまでは日本軍と戦うのを回避して、国際連盟に提訴したり列強国に干渉させる方針をとった。
だから1931年9月21日に、柳条湖事件について国連に提訴した。
介石の国民政府は、その後も日本軍の不法行為を国連に訴え続けて、日本の国連脱退(33年3月)に至る。
中国政府が不抵抗を採ったため、関東軍は容易に軍事行動できた。
1931年10月8日には、張学良が臨時政府をつくっていた熱河省の錦州を爆撃した。
これは石原莞爾の作戦で行われ、75発の爆弾を投下したが、第一次大戦以来の都市爆撃で、国際社会に衝撃を与えた。
10月24日の国連の理事会は、日本の満州侵略を非難し、日本軍の撤退を勧告する決議案を13対1で採決した。
国連規約により全会一致でないので法的には決議案は成立しなかったが、日本の孤立を明確にした。
石原莞爾は妻に対し、「どうせ満州問題の解決は世界を敵とする覚悟を要するから、国連案は恐るるに足りません」と10月31日に語った。
石原莞爾らの関東軍は、若槻内閣の不拡大方針に全く従う気配をみせなかった。
関東軍が11月19日に満州北部のチチハルを占領すると、若槻内閣は12月1日に総辞職した。
代わって政友会の犬養毅・内閣が発足した。
関東軍は、32年1月3日に錦州を占領し、2月5日にはハルビンを占領し、4ヵ月で満州の主要都市と鉄道を占領し終えた。
容易に占領できたのは、中国政府が不抵抗を採ったためだが、日本軍はその事を冷静に分析しなかった。
そして「日本軍が本気になって一撃を加えれば、中国政府は簡単に屈服する」という、『中国一撃論』が台頭した。
『中国一撃論』は後に、日中の全面戦争へと進める日本軍部内の「拡大派」の思想となる。
関東軍は1931年10月2日に、「満蒙を独立国として、これを日本の保護下に置く」という、『満蒙問題の解決案』を策定した。
そして清朝の最後の皇帝だった溥儀を、傀儡の皇帝にすることにした。
溥儀は天津で隠遁生活をしていたが、11月2日に奉天の特務機関長である土肥原賢二は、天津で武装暴動を起こし、日本租界に戒厳令を敷いて、そのドサクサで溥儀を連行した。
溥儀は船で旅順に運ばれ、満州入りした。
関東軍は、満州国の樹立を行うに当たり、国際社会の目をそらすための陽動作戦も行った。
それが『第一次・上海事変』である。(※この事変は別記事にしてます)
列強国が関心を上海に集中している間に、板垣征四郎らは32年3月1日に『満州国の建国』を行った。
溥儀は執政に就任し、首都は新京(長春を改称)に定めた。
満州国は、建国宣言で「王道楽土」と「五族協和」をうたい、国旗は5族のシンボルカラーを合わせた五色旗にした。
年号もつくって独立国家の体裁をしたが、実権は日本人が握って、行政府の国務院の議案はあらかじめ日本人の次長会議で決められた。
組織や制度からは見えないが、満州国のすべてが関東軍の指導下におかれて、満州国軍は関東軍司令部に直属する日本人・軍事顧問団の統率下におかれた。
こうして満州(中国の東北部)は、日本の植民地となった。
1932年1月8日に裕仁は、関東軍の行動を全面的に称賛し、「朕は深くその忠烈を嘉す」という勅語を発表した。
関東軍の謀略と独走を、裕仁は追認したのである。
こうして満州事変(満州侵略)は国策となり、日本政府は1932年度の予算として臨時軍事費2億7821万円(同年度予算の歳出の14.3%)を出した。
前年の陸軍軍事費は1億6202万円だったから、大変な増額である。
この満州への臨時軍事費は、毎年支出されていき、陸軍はこの膨大な予算を使って軍備拡張をした。
そして陸軍が謀略によって膨大な予算を獲得したのを目の当たりにした海軍は、予算の拡大を目指して「第二次・上海事変」という謀略を起こす事になる。
満州侵略のための臨時軍事費は、第一次大戦後の日本軍の軍備縮小の流れを破綻させた。
(2020年5月4&9日に作成)
(『男装の麗人・川島芳子伝』上坂冬子著から抜粋)
満州事変までには、次の事も起きていた。
1930年に張学良は、排日・排朝鮮の政策を打ち出し、「盗売国土懲罰令」を出した。
これは、日本人や朝鮮人に土地を貸したり売ったりした者は、国土の盗売者として罰するというものだ。
(※当時の朝鮮は日本領である)
1931年6月には、朝鮮人の農民200余人が水田開発のための水路工事の中止命令を中国当局から受けたのを不服として、長春北方の万宝山で紛争を起こした。(万宝山事件)
日本領事館は武装警察を出動させたが、このとき満州青年連盟・長春支部長の小沢開作らが強力な抗議運動を行った。
小沢開作は、指揮者の小沢征爾の父で、板垣征四郎と石原莞爾という関東軍参謀の名から一字ずつ取って息子の名にしたと聞く。
続いて中村震太郎・大尉の事件が起きた。
兵要地の調査を行っていた陸軍・参謀本部に勤務する震太郎は、行方不明となり、31年6月末に支那兵に殺害されていたと分かった事件である。
(2020年8月8日に作成)
(『満州帝国史』太田尚樹著から抜粋)
日本陸軍内で満州進出を目指す者たちは、『満蒙問題の解決方策・大綱』をまとめた。
その中心となったのは永田鉄山で、彼の周りには岡村寧次(のちに支那派遣軍・総司令官)、石原莞爾、小畑敏志郎、東条英機らが控えていた。
『満蒙問題の解決方策大綱』の骨子は、満州を日本領にしたいが、それだと各国の反発が必至なので、独立国家をつくって親日政権を樹立し、実質的に日本が支配する、というものだ。
陸軍省と参謀本部の中堅幹部たちがつくった「木曜会」。
その1928年3月1日の会合で、陸軍省・軍務局課長だった東条英機がこう発言した。
「日本帝国の自存のため、満蒙は完全なる政治権力を確立するを要するのであります。」
メンバーの1人が「それは、(満蒙を)取るという意味か?」と訊くと、英機は「そうです」とあっさり答えた。
東条英機の発言から7ヵ月後のこと。
石原莞爾は、張作霖爆殺の4ヵ月後の1928年10月に、「木曜会」で次の発言した。
「私の在任中に、満州をごっそり頂戴してご覧にいれます」
この大見得をきって、莞爾は満州に赴任していった。
満州事変が起きるのは、時間の問題だったのだ。
満州に赴任した石原莞爾は、板垣征四郎と共に、旅順の関東軍司令部と、奉天の東洋拓殖・奉天支店に置かれた臨時司令部の間を行き来した。
彼らの下には、片倉衷、花谷正、辻政信らの若手参謀がいた。
柳条湖事件の起きた1931年9月18日の深夜、旅順の司令部宿舎にいた本庄繁・関東軍司令官は、奉天の板垣征四郎から電話で事件を報告された。
征四郎は、「緊急事態の発生でしたから、部隊を出動させました」と告げた。
本庄繁は急ぎ奉天に駆けつけたが、今度は石原莞爾が「満州各地に関東軍の出動命令の発令を」と迫った。
繁が「大丈夫だろうね」と念を押すと、莞爾は「関東軍の出兵は自衛権の発動で、問題は起きません。関東軍司令官の決裁は、関東軍司令部・条例の第3条の管外出兵権の条項にも明記されてます。」と答えた。
日本内地での出兵は、天皇に上奏して裁可があってから動かせる。
しかし満州のような地では、軍司令官の決裁で軍を動かせたのである。
留意すべきは、柳条湖事件と満州事変は「突発的な事態」ではなく、一部の陸軍人が計画したシナリオ通りだった事だ。
満州事変後に石原莞爾は、内地(日本)を講演して回った際に、こう説いた。
「そもそも満州の地は、支那本土とは違います。
満州には、朝鮮人、満州人、蒙古人が住み、明治以後は日本人も多く入った。
つい最近まで漢民族は南の小部分にしかおらず、いわば満州は諸民族の共同の財産であります。」
満州国の成立後、満州にアメリカ式の大農法を取り入れて、大豆や穀物の増産をする計画があった。
しかし石原莞爾は、「対ロシア作戦のために、日本は向こう20年間に100万戸、500万人の日本人の血を満州に植え付けるのだ。そのために耕地は細分化されなくてはならん。大農法をやられたら、それができん。」と言って、計画を潰した。
その結果、「王道楽土の建設」をスローガンに、内地から開拓移民や花嫁が送り込まれた。
板垣征四郎や石原莞爾が考えていたのは、満州をソ連の南下を防ぐ、防波堤にすることだった。
満州国の建国時のスローガンは、「五族協和」と「王道楽土」だった。
この2つの謳い文句は、小澤開作の造語だった。
奉天に住む開作の本業は歯科医だが、彼は満州青年連盟、協和会、中華民国新民会に関わり、関東軍の参謀とも親しくしていた。
中でも親しかったのが、板垣征四郎と石原莞爾だった。
征四郎と莞爾は、開作の作った「五族協和」と「王道楽土」のフレーズを気に入り、「これで行こう」となった。
ちなみに、指揮者の小澤征爾は開作の息子で、奉天生まれである。
征四郎と莞爾から1字ずつもらって、征爾の名になった。
後に満映が作った映画の、内地向けの宣伝文句は、「建設の息吹に燃え立つ大陸」「緑清らかな池水に映える楽土うららか」であった。
大橋忠一は右寄りの外交官で、満州事変の当時はハルピン総領事だった。
忠一は、柳条湖事件の発生と同時に、「当地(ハルピン)における日本人居留民の生命財産の保護のため出兵を求む」との電文を、東京の外務省に打電したことで知られる。
彼は戦後には、自民党の代議士になった。
(2020年9月23日に作成)