(『阿片王 満州の夜と霧』佐野眞一著から抜粋)
1939年4月に、日本政府・陸軍省の軍事課長である岩畔豪雄の命令で、『昭和通商』という国策会社が創られた。
昭和通商は、三井物産、三菱商事、大倉商事の3大財閥が各500万円ずつ出資してスタートした、マンモス商社だ。
最盛期には3千人近くの社員を抱え、ニューヨーク、ベルリン、バンコク、シンガポール、北京、新京(満州国の首都)などに支店を置いていた。
昭和通商は、表向きは日本陸軍の旧式武器を中近東などに輸出しつつ、タングステンなどの貴重な物資を現地調達していた。
だがその裏では、諜報活動をし、さらにアヘンの取引もしていた。
昭和通商は、日本陸軍のコントロール下にある特務機関だった。
昭和通商の設立総会は、四谷の料亭・宝亭で行われたが、陸軍省を代表して武藤章・軍務局長と岩畔豪雄・軍事課長が出席した。
三井物産を代表して、同社の常務の石田礼助(後に国鉄総裁)が出席した。
昭和通商の社長には、掘三也・予備役大佐が就任することになった。
昭和通商の要となる調査部の課長には、「二・二六事件の精神的支柱」といわれた大岸頼好が就いた。
二・二六事件との関わりを疑われて予備役となった大岸頼好を、岩畔豪雄は昭和通商に拾い上げたのだ。
この2人は広島にある陸軍幼年学校で先輩後輩の間柄だった。
昭和通商にはこの他にも、東奥日報の記者だった竹内俊吉(戦後に青森県知事)や、特務機関長の五島徳二郎、経済界の黒幕とも右翼の大立者とも呼ばれた関山義人も在籍した。
また昭和通商の上海支店には、児玉誉士夫や、児玉機関でならず者と恐れられ戦後には「トルコ風呂」のはしりと言われた東京温泉を銀座につくった許斐氏利も出入りした。
私が昭和通商の名を知ったのは、民族学者の宮本常一と、そのパトロンの渋沢敬三との交流を描いた『旅する巨人』の取材中に得た、戦時中の民族学者の活動からだった。
1941年6月に日本政府は、『民族研究所』の設立を閣議決定した。
これは渋沢敬三の肝いりでつくられた「日本民族学会・付属研究所」を編成がえしたもので、国策の研究機関だ。
ここに参加した者は、後に騎馬民族日本征服説を唱えた江上波夫などに、少壮の民族学者だった。
実は、民族学は軍事や植民地支配に流用しやすい。
だから国策の研究機関ができたのだ。
国立公文書館にある、『民族研究所』に関する公文書は、この研究所の設立理由をこう述べている。
「国策たる大東亜(共栄圏)の建設において、最も根本的な要件は、民族に関する研究と、これに基づく諸民族への対策にあり」
こうした考えから、民族研究所では、アメリカ、エスキモー圏、オーストラリアなど、世界規模の民族研究を目指していた。
1944年2月に、民族研究所とは姉妹機関になる『西北研究所』が、内蒙古の張家口に設立された。
西北研究所の所長には今西錦司が就き、次長には石田英一郎が就いた。
当時は京大の大学院生だった梅棹忠夫も、嘱託として入所した。
西北研究所では、中ソの国境に居住する少数民族のオロチョン族の調査・研究も行った。
関東軍の特務機関は、射撃術に長じて中国語とロシア語に堪能なオロチョン族を、対ソ戦に備えたスパイ要員に仕立てる目的をもち、アヘンを彼らに配給していた。
(※日本軍(関東軍)は中国の支配地において、アヘンの密造と密売を仕切っていた)
当時の満州(満州国)では、諸民族の指紋に関する調査研究がさかんに行われた。
民族研究所の調査団について記した、民族学協会の発行する「民族研究彙報」(1945年8月発行)には、こうある。
「調査班の派遣については、大東亜省、昭和通商、蒙古文化研究所、毎日文化協会、華北交通、西北研究所などに後援され、当協会も支援している」
上の調査団に参加した河部利夫によると、調査班員は全員が昭和通商の嘱託社員の肩書だった。
河部利夫はこう証言した。
「昭和通商の証明書は、驚くほど効いた。
敗戦直後の混乱時も、釜山から日本に向かう船に、昭和通商の証明書を見せると最敬礼で乗せてくれた。
満員で船になかなか乗れない軍人が、それを貸してくれと拝み倒すので、貸してやった。
下関から東京に向かう列車も、昭和通商の証明書でタダだった。」
昭和通商に勤務した山本常雄は、かつての同僚たちから聞き取りをして、『阿片と大砲』という労作を著している。
『阿片と大砲』には、次のことが書いてある。
①昭和通商は、アヘン取引を日本陸軍から極秘に任されていた。
②児玉誉士夫は1940~41年にかけて、昭和通商の依頼でヘロイン(アヘンから出来る強度の麻薬)の密売を2回行った。
ヘロインは南支那に運ばれて、タングステンと物々交換された。
③アヘンは住民の宣撫に用いられ、医療用にも使われた。
日本内地にも秘密裡に持ち込まれたが、税関を通さず、日本軍の命令で昭和通商が輸入していた。
④アヘンは一両(8匁3分)の量で内蒙古の張家では20円だったが、天津に運ぶと40円、上海では80円になり、シンガポールに運べば160円にハネ上がった。
アヘン・ビジネスで得たカネは、昭和通商の物資調達にも使われた。
⑤(第二次大戦の終わりに)ソ連が満州に侵攻してくると、関東軍は倉庫に置いていた12トンのアヘンを日本に運ぼうとした。
しかしその計画はGHQに知られて、首謀者たちは逮捕された。
その後、時価1兆円と言われたアヘンは、忽然と消えてしまった。
⑥アヘンは、鉄道の敷設や要塞造りに働かせる苦力を集めるためにも使われた。
苦力たちが欲しがったのは、アヘンと塩だった。
なお、アヘン取引に深く関わり「阿片王」と呼ばれた里見甫は、中国における「塩の売買」にも密接に絡んでいた。
河部利夫は、甘粕正彦とも知り合いで、日本が敗戦した時のことを語っている。
「甘粕正彦は私に、『敗戦後の混乱で何があってもおかしくない。これを持っていきなさい。もしものことがあっても、これを渡せば絶対に見逃してくれる』と言って、チェリーの煙草缶を1個くれた。
開けると、ぎっしりとアヘンの白い粉が入っていた。
甘粕は『これを持っていれば5回、命拾いできる』と言ったが、かえって危険だと思い、川に投げ捨てた。」
日本陸軍の特務機関である民族研究所と昭和通商の橋渡し役になったのは、民族学者の岡正雄と、佐島敬愛だった。
岡正雄は、民族研究所の総務部長で、多くの学者を昭和通商に送り込んだ。
川喜田二郎は、送り込まれた1人である。
川喜田二郎によると、彼に話を持ち込んだのは、今西錦司だった。
「今西から『このままでは軍隊に引っぱられる(徴兵される)ぞ。昭和通商に入らんか。』言われた。
昭和通商には4ヵ月くらい居た。」
佐島敬愛は、昭和通商の幹部社員だった人で、1984年に『ロマンを追って八十年』という自伝を出した。
そこには岡正雄との出会いが書かれている。
2人は1940年11月に、モスクワから乗ったシベリア鉄道で乗り合わせた。
岡正雄は、渋沢敬三の援助でウィーン大学に留学し、帰国の途中だった。
佐島敬愛は、昭和通商の調査部長として出張した中近東・バルカン半島から帰国する途次だった。
2人は意気投合したが、それは共通の友人として陸軍中野学校や昭和通商をつくった陸軍省・軍事課長の岩畔豪雄がいたからもあった。
岡正雄は、岩畔が1938年につくった陸軍中野学校に特別講師として招かれ、3年間にわたり週1で民族政策の講義をしていた。
ちなみに岩畔豪雄は、神奈川県の川崎に「陸軍登戸研究所」をつくった人でもある。
岩畔豪雄は、次の証言をしている。(『岩畔豪雄氏談話速記録』から)
「登戸研究所では、パスポートや紙幣の偽造をした。
中国の紙幣は、ドイツのザンメルという印刷機械で作っていたので、同じ機械をドイツでつくらせて日本に運んだ。
中国経済を混乱させるために中国大陸にバラまいた偽札は、日本円で60億円は下らなかった。
登戸で作ったものを、大陸浪人に渡してバラまかせた。」
佐島敬愛は、三井物産に勤務した後に満州にわたり、関東軍参謀長の小磯国昭の紹介で満州航空に入社した。
満州航空の時代には、内蒙古を視察し、内蒙古を支配していた徳王とも会見した。
この内蒙古視察団の隊長は、情報将校の晴家慶胤だった。
小磯国昭の紹介で佐島と知り合った岩畔は、昭和通商を設立するにあたり、佐島を引き抜いて調査部長にした。
佐島敬愛は昭和通商の調査部長になると、軍部の密命をおびて世界各地を飛び回った。
昭和通商OBの釜田賢三郎と長浩に取材して話を聞いたところ、2人はこう証言した。
「昭和通商の上海支店の仕事の大半は、アヘンの取引だった。
そのアヘン取引の元締めが、青幇(中国のヤクザ)と通じ合う里見甫だった。」
(2023年11月2~4日に作成)