(『阿片王 満州の夜と霧』佐野眞一著から抜粋)
私は取材して、戦時中に阿片の密売をしていた『昭和通商』のOBである、釜田賢三郎と長浩に話を聞けた。
彼らは「昭和通商の上海支店の仕事の大半は、阿片の取引だった。取引の元締めは青幇(中国のヤクザ)と通じ合う里見甫だった。」と証言した。
そして彼らは、「里見甫を知りたければ、これが参考になるでしょう」と言って、二枚綴りのペーパーをくれた。
そのペーパーの表題は、「故里見先生の遺児、里見泰啓君の後援会 奨学金・御寄付御願いの件」であった。
里見甫が死去して2ヵ月が経ち、遺産が無いので遺児の奨学金の寄付を願う旨の訴えだった。
末尾の日付は1965年5月で、甫が死去したのが65年3月だと知った。
驚くべきは発起人たちの顔ぶれだ。
176名の発起人には、岸信介、児玉誉士夫、笹川良一、佐藤栄作の名もある。
他にも、甘粕正彦の弟の甘粕四郎、満洲国の首都・新京で市長をつとめた関屋悌蔵、満洲国の阿片ビジネスをコントロールした満洲政府・民政部・禁煙総局長の難波経一、日本政府・企画院の総裁だった鈴木貞一がいる。
発起人のリストには、北一輝の門下生で右翼活動をした清水行之助、国策新聞「大陸新報」を上海で発行し戦後には自民党議員になった福家俊一の名もある。
満洲国の副総理格である(満洲国政府)総務庁次長をした古海忠之。
共同通信の前身である同盟通信社を創立した岩永裕吉。
裕吉の後に社長になった古野伊之助。
新聞聯合社の上海支局長をし西安事件をスクープした松本重治。
満鉄の調査部にいた伊藤武雄。
日本陸軍の下で紙幣偽造や阿片売買をした岡田芳政。
同じく日本陸軍の下で阿片のトラック輸送などをした阪田誠盛。
上海浪人だった岩田幸雄や許斐氏利の名もある。
変わったところでは、軍事評論家の中森芳明(ガブリエル中森)の名もある。
里見甫の晩年の秘書格だった伊達弘視の名はない。
上記のペーパーで寄付金の対象となった里見泰啓は、こう語る。
「父が死んだ直後に、家によく出入りしていた許斐氏利さんが、伊達(弘視)さんにすごい怒ったことがあった。
おそらく伊達さんは、父の後継者のような態度をしていたのでしょう。
許斐さんは『この野郎!』という感じで、僕を抱っこしたままの伊達さんを、思いっきり蹴飛ばしたんです。」
こんな事件があったので、伊達弘視は里見家から遠のいたのかもしれない。
私は発起人たちの素性を洗っていったが、半分は身元不明だった。
だが取材を重ねるうちに、何人かの正体は掴んだ。
たとえば小泉武雄は、戦後になって上海から日本に戻った里見甫に世田谷区・成城の豪邸を用意し、A級戦犯として巣鴨プリズンに収監された里見甫に連日面会に行った。
小泉武雄は、銀座の「ロマンス社」というカストリ雑誌社に身を置いたこともある。
日本共産党系の雑誌『眞相』は、1950年8月号に「ロマンス崩壊にからむ極東コミン(テルン)の密使」という記事を載せている。
「ロマンス社の社長と副社長は、共に講談社の出身で、1939~40年頃に満洲に渡って大陸講談社をつくり、後には関東軍の機関紙『ますらお』の編集にあたった。
当時の彼らは、満洲のエンマ大王こと甘粕正彦に接近して、すごい羽振りだった。」
上記の『ますらお』は、正確には『満洲良男』で、発行元は満洲雑誌社だった。
同社の社長は、甘粕正彦だった。
『眞相』は、さらにこう書いている。
「小泉武雄は、元は大陸ゴロの旗頭であり、北京で阿片の買い集めをしていた阪田機関(阪田誠盛がボス)にも関係し、一説によれば殺人専門の請負業者であった。」
この『眞相』の記事は、「ロマンス社には児玉誉士夫、辻政信、岩畔豪雄や、岩畔豪雄がつくった陸軍中野学校のスパイが今も出入りしている」と述べ、再び小泉武雄に言及している。
「小泉武雄は、今なお麻薬密売の総元締めである里見甫と、昔から関係が深い。
小泉が所有する西銀座・電通裏のロマンス・クラブ(女子野球団ブルー・バードの事務所もここにある)は、得体のしれない連中の連絡所で、陰謀と密売買が交錯している。」
1950年当時に、ロマンス社でアルバイトしたことがある塩澤実信は、こう証言した。
「出入りしている人達が、とにかくうさん臭い。
元は大陸ゴロで、『オレは満洲で甘粕正彦と親しかった』とか、『向こうでは人に言えない商売をしていた』と、大風呂敷を広げる。
でも本当か嘘かは本人しか分からない。
小泉武雄は見かけた程度ですが、コールマン髭を生やして、見るからにインチキ臭かった。
身長は170cmはあって、細身の体にビシッとスーツを着ていた。
満洲時代に阿片で大儲けしたらしく、世田谷の屋敷に住んでいると聞きました。
彼はロマンス社の近くにある『ロマンス・クラブ』というサロンの経営に絡んでいた。
『ロマンス・ブルーバード』という日本初の女子プロ野球チームの結成にも関わっていたと思います。」
小泉武雄の手配で里見甫が住んだ成城の屋敷は、後に映画監督のマキノ雅広の屋敷となった。
マキノ雅広は、里見の遺児の寄付金お願いの発起人名簿にも名前がある。
雅広の長男で、安室奈美恵などを売り出した音楽プロデューサーのマキノ正幸は、こう語った。
「成城の屋敷は、カネに困った里見が旧知の父に売ったのではないでしょうか。
売買には小泉が絡んでいたと思います。
小泉は父の取り巻きの一人で、定職がないらしく父の競馬によく付いてきました。」
成城の屋敷に里見甫が住んでいた時期の土地所有者は、土地登記を見ると同じく里見遺児の寄付願い名簿に名がある、川島國明という男だった。
寄付願い名簿で、身元が判明した者に、石丸清がいる。
石丸清は、東京都世田谷区用賀の高級住宅に住み、銀座のバー「らどんな」のママである瀬尾春のパトロン兼愛人だった。
瀬尾春は上海にいた時代に、児玉機関(児玉誉士夫が率いた特務機関)の一員だった石丸清と知り合い、戦後になって再会すると愛人関係になった。
里見甫の息子である湯村啓助によると、里見甫は酒が飲めないのに「らどんな」によく行っていた。
里見甫の晩年に秘書をした伊達弘視に寄付願い名簿を見せて、「心当たりの人はいませんか」と尋ねると、「少し時間をくれ」との返事だった。
次に会った時に、分かる限りの身元を書き込んだ一覧表をくれた。
伊達弘視によると、前述の川島國明は、里見甫が上海に「宏済善堂」という阿片販売の組織をつくった時、経理を任された。
寄付願い名簿にある久光善太郎は、里見甫が代表をつとめる「日本商事」の専務だった。
「日本商事」は、渋谷駅のハチ公前にあった峰岸ビルにオフィスがあった。
伊達弘視が里見甫と会って会っていたのも、このオフィスだった。
日本商事の閉鎖された法人登記をとってみると、設立は1937年2月15日で、里見甫が本格的に阿片ビジネスに乗り出した年である。
登記で目を引いたのは、設立の目的が「塩、葉煙草、医療品などの輸出入」と書かれている事だ。
里見甫が上海における阿片売買でパートナーにしたのは、秘密結社・青幇の頭目である盛宣壊の甥、盛文頤だった。
盛文頤の公的な肩書は、祐華塩公司の社長である。
この事実は、日本商事が中国の阿片ビジネスで稼いだカネの、送金先だったのではと思わせる。
日本商事で専務だった久光善太郎の孫である久光一規は、こう語った。
「祖父・善太郎の人生は、分からない所が多いです。
戦前に満洲に行った事はないと思います。
戦前は工場を経営し、軍用機の部品を作っていたと聞いたことがあります。
石炭の仕事にも関係したようです。
祖父は祖神道という新興宗教の信者で、同じく信者だった里見さんにその集まりで私も会ったことがあります。」
日本商事が入っていた峰岸ビルのオーナーだった峰岸澄夫は、里見遺児の寄付願い名簿に名を連ねている。
峰岸ビルを管理していたのは、澄夫が社長をつとめる和栄興業だった。
和栄興業の関係者を探すと、東急百貨店のOBにたどり着いた。
(※このOBがなぜ和栄興業のことを詳しいかは後述される)
そのOBは言う。
「峰岸澄夫の父は、渋谷の名士で大地主だったそうです。
戦前は、道玄坂から現在の渋谷センター街にかけては、全て峰岸家の土地だったと聞いています。
峰岸澄夫は、文学青年のような雰囲気で、お坊ちゃんの感じがしました。」
峰岸ビルが竣工したのは1959年で、1~6階は東宝系の映画の封切り館、7階にはキャバレー・チェーンの「チャイナタウン」があった。
日本商事のオフィスは7階で、チャイナタウンの隣りだった。
映画産業が斜陽になると、峰岸ビルの経営も悪化して、西武グループに買収されるとの噂が出た。
渋谷は、西武のライバルである東急の本拠地だ。
そこで買収を防御するため、東急から峰岸ビルに役員が送り込まれる事になった。
再び東急百貨店OBの証言である。
「峰岸ビルの帳簿を見て驚きました。放漫経営の見本でした。
オーナーの峰岸澄夫は、あちこちからむしり取られていたと思います。
愛知揆一(政治家)の後援会に入って、カネづるをしてました。
たっぷりむしり取られていたようです。
うさん臭い人達からも、常にたかられてました。
峰岸澄夫の葬儀は淋しいものでした。
あれだけ政治家に貢いだのに、弔問に来た政治家は松野頼三だけでした。」
峰岸澄夫にたかった者に、里見甫が入っていたのは確実だ。
おそらく日本商事は家賃を払っていなかっただろう。
上の証言に出てきた愛知揆一は、岸信介らと同じく、元は満洲国で働いた官僚だった。
愛知揆一は、大東亜省の前身の興亜院の官僚だった時期に、華北連絡部で働いたが、そこは阿片を扱う部署だった。
和栄興業の元社員の有賀充男は、こう語った。
「峰岸澄夫はたしかに愛知揆一と深い関係でした。
愛知の後援会『素交会』の主要メンバーだったと聞いています。
素交会に、里見甫も入っていたらしく、峰岸はそこで里見に出会ったと思います。
日本商事は、峰岸ビルと賃貸契約していた記憶はありません。
日本商事に出入りしていた久光善太郎は、『遼東半島に石炭の利権を持っている』と言ってました。」
有賀充男の話で興味深かったのは、『日本商事は戦前、中国で塩の利権を持っていた』と、次のように証言したことだ。
(※塩は戦前の中国において、阿片と同じく密売買が盛んだった)
「峰岸澄夫は、塩の利権を里見甫から譲ってもらいました。
『買わされたんだ』と私は思いました。
ある時に峰岸から、『塩の権利を持っていると、大蔵省に何らかの請求ができるはずだ。戦前の権利話とはいえ、請求権くらいあるだろう。大蔵省に聞いてくれないか』と頼まれました。
私は大蔵省に行きましたが、役人は一笑に付して全く相手にしませんでした。
峰岸は、里見たちに一杯食わされたのかもしれません。」
有賀充男は、伊達弘視のことも憶えていた。
伊達弘視は峰岸ビルの里見のオフィスで、「亜細亜之夢」という雑誌をつくっていた。
その雑誌を見ると、中国の運河や水資源が地図入りで克明に書かれている。
日中が国交回復する10年前だから、貴重な情報だったに違いない。
弘視によれば、中国情報を欲しがる商社などが争って買ったという。
里見甫の息子の湯村啓助も、こう証言した。
「私はまだ高校生でしたが、この雑誌の販売を手伝って、アラビア石油の山下太郎・社長のところなどに届けてました。」
(2023年10月27~28日に作成)