(『阿片王 満州の夜と霧』佐野眞一著から抜粋)
阿片の密売買の元締めだった里見甫。
その男の遺児への寄付金お願いをする会があり、発起人には岸信介、児玉誉士夫、笹川良一、佐藤栄作も名を連ねていた。
寄付願いの発起人名簿で、一番驚かされたのは、1人だけ女性が混じっていた事だ。
里見甫の秘書だった伊達弘視が、詳しく教えてくれた。
「梅村淳って名前があるが、そいつは女だ。
里見甫とはとても親しい関係で、里見に惚れていたと思う。
この女は京言葉を使っていた。」
里見甫の息子の湯村啓助に取材すると、梅村淳のことを憶えていた。
「彼女は男装していて、いつも背広にズボンの服装で、髪は7:3の断髪でした。
高貴な生まれと聞いています。
父は、あの女は小笠原長生の落としダネだと言ってました。」
小笠原長生は、子爵を賜り、日清・日露戦争の武勲で海軍中将まで昇った人だ。
湯村啓助の話が続く。
「東京タワーができたばかりの頃、梅村淳はそこでお土産屋をやってました。
私の父は東京タワーの株を持っていて、その線でもぐり込ませたと思います。」
中日新聞の東京総局長や、中日ドラゴンズ代表をつとめた小山武夫は、こう証言している。
なお小山武夫は戦前に、里見甫が主幹をする満洲国通信社(国通)で働いていた。
「私が中日新聞社で政治部長をやっていた時、突然に里見が現れ、芝公園にテレビ塔を造るが、それに中日新聞も資本参加してくれと、話を持ちかけてきた。」
取材をしたところ、梅村淳が東京タワーでやっていた土産屋は、「餃子会館」という店で、餃子のテイクアウトの店だった。
餃子は、満洲が発祥だが、淳が店を出した1950年代の終わり頃は、蒸し餃子はまだ日本になじみが無かった。
それを考えると、淳と満洲の結びつきが窺える。
さらに言えば、東京タワーと近い芝公園にあった中国料理店「留園」のオーナーは、盛毓虎だ。
里見甫が戦時中に上海で阿片ビジネスをしていた時、パートナーは秘密結社・青幇と繋がる盛文頤だったが、盛文頤と盛毓虎はごく近い縁戚である。
梅村淳の餃子店は、留園から餃子を調達していたのではないだろうか。
里見甫が晩年に傾倒した新興宗教の「祖神道」に、梅村淳も入信していた。
祖神道の関係者に取材すると、「梅村淳は戦前に、満洲で麻薬の密売人をやっていたと聞いた」とか、「梅村淳は里見の下で運び屋をしていたと聞いた」と言う。
祖神道の本部管長である松下延明は、こう語った。
「鎌倉にある梅村さんの家は、信者仲間の兒島佐代子さんという薬剤師の持ち家でした。
梅村さんは、兒島さんの家に同居していたんです。
梅村さんは、昼間は東京タワーのお土産屋で働き、夕方からは兒島さんの薬局を手伝っていました。
梅村さんはお金に関して評判が悪く、私も40万円ほど貸したが返ってきませんでした。」
梅村淳が住んでいたという、鎌倉の家を訪ねると、現在は鎌倉市議が住んでいた。
その市議に梅村淳のことを尋ねると、身も蓋もない返事をした。
「梅村? あっ、レズのババアのことだろ。
昔、この家で天ぷら屋をやっていた。
そう、レズだよ、レズ。」
市議によると、梅村淳は同居人の兒島佐代子と共同で、「梅天」という天ぷら屋をしていた。
現在は、兒島佐代子の姪が大家だという。
梅村淳が兒島佐代子の家に転がり込み、「梅天」を出したのは1975年頃らしい。
近所で聞き込みをすると、梅村淳は元女優だとか、元SKD(松竹歌劇団)と噂されていたと分かった。
1944年に亡くなった映画女優の梅村蓉子と勘違いしている者もいた。
各種文献を調べたが、淳が女優やダンサーをしていた証拠はなかった。
さらに取材を進めると、梅村淳は戦前から鎌倉に住んでいたと分かった。
1941年に鎌倉の雪ノ下に、土地・家屋を取得している。
名義人は「梅村雪子」となっていた。
その土地・家屋の所有権は、1952年に「義母の娘」に更新された。
大矢信彦は、里見甫の出身校の東亜同文書院の後輩で、満洲国通信社で甫の下で働いた人だ。
大矢信彦は戦後は、1941年に購入していた鎌倉市の広大な敷地で暮らした。
信彦の長女は、こう証言した。
「梅村淳ちゃんは、鎌倉にクスノキという女医の恋人がいました。
昭和20年代の話です。
その後にクスノキさんは病院を畳んで、鎌倉を離れたようです。」
調べたところ、楠隆という女医が鎌倉にいたが、東京に移住していた。
梅村淳は、鎌倉雪ノ下の家を出た後に、楠隆の自宅兼病院で同棲したのだ。
話を兒島佐代子に戻すが、「兒島佐代子の死後、姪が土地を相続しようとしたが、梅村淳が立ち退きを拒否したため、裁判に発展した」と耳にした。
その姪を訪ねて話を聞いた。
「梅村さん? 名前も聞きたくありません。
私がどれだけ迷惑したか知ってるんですか?
叔母(兒島佐代子)はお嬢さん育ちで、世間を知らなかった。
そこへあの人が近づいてきた。
あの人は最初、敷地内の離れを借りて、誰か別の女と暮らしていました。
ところがその女が亡くなり、今度は叔母に近づいたんです。
あの人は、叔母が死んでも、天ぷら屋の営業権があるとか言って、立ち退きませんでした。
結局、立ち退き料や『梅天』の従業員の未払い賃金やらで、2500万円も支払わされる羽目になったんです。」
ずっと後に判明したが、梅村淳が鎌倉で最初に住んだ雪ノ下の家にも、映画女優を目指す若い女性が同居していた。
梅村淳は、里見甫と組んで満洲で阿片を密売買し、その後は鎌倉で女優の卵、女医、世間知らずの女薬剤師と、レズ関係を結んで渡り歩いた。
私は改めて、里見甫という男の周囲の者を狂わす魔力に立ちすくむ思いだった。
(2023年10月29~30日に作成)