タイトル里見甫の黒い人脈③
東条英機、若松華瑶

(『阿片王 満州の夜と霧』佐野眞一著から抜粋)

阿片王と呼ばれた里見甫は、戦後に「祖神道」という新興宗教を信仰した。

祖神道の本部管長である松下延明は、こう証言した。

「里見甫をよく知る信者がいた。その人は東条英機の秘書だった若松という人だ。」

里見甫の晩年の秘書的存在だった伊達弘視に聞いたところ、若松とは若松華瑶という人物で、東条英機の私設秘書をし、『東久邇日記』にも登場するという。

『東久邇日記』は、皇族で首相にもなった東久邇稔彦の残した日記である。

その1942年4月2日の項に、こうあった。

「京都の若松華瑶が来たる。
若松は東条首相の私設秘書で、東条と私の連絡係となった。」

同日記の1943年8月31日の項には、こうあった。

「若松は、東条首相の命令で、朝鮮、満洲、北支、中支に1ヵ月半の予定で出張するとのこと」

同日記の1944年2月2日の項では、若松と里見が来訪している。

「若松、里見甫が来たる。

里見は永く上海にいて支那人の知人が多く、陸軍の意をうけて重慶政府(蒋介石の政権)との和平交渉の第一歩を踏み出しつつある。

里見は次のように話した。

『蒋介石はカイロ会談で、(米英トップの)ルーズベルト、チャーチルと会談した。

テヘラン会談では、(ソ連の)スターリンが蔣介石の出席を好まずとの理由で、蔣介石はルーズベルトから出席を断られた。

その後になって、実はルーズベルトが蔣の出席を好まなかったと分かり、蔣は嘘をつかれたため米国に不満を持った。

それから蔣は、日本との和平に心が動きつつある。

蔣の(和平の)基本条件は、日本が重慶政府を中国の正式な政府と認めて和平交渉をすることだ。』」

私は取材しに、京都の若松家を訪ねた。

若松華瑶は、1974年に78歳で他界し、今は娘が2代目を継いでいる。

初代の華瑶は、西陣織の帯の図案で有名な名手だった。
遊び人としても有名で、相撲取りなどのタニマチもしていた。

2代目の華瑶は言う。

「かつて大原にあった若松家の3千坪の屋敷には、いつもどなたかが泊まっていました。

華族の方とも付き合っていました。
東久邇宮や、梨本宮などがよく泊まりに来ました。

お相撲さんを50人ほど呼んだり、プロ野球チームを丸ごと自宅に招待したこともあります。」

ちなみに、2代目・華瑶の夫は、元阪神のキャッチャーの土井垣武である。

2代目・若松華瑶は、次のように証言した。

「父(初代)は、橋本欣五郎と親しく、(右翼団体の)赤誠会の一員でした。

一時期は、大政翼賛会・京都支部の幹部でした。

軍人では滋賀県八日市の航空隊とは特に仲が良く、戦闘機がウチの上空を飛ぶ時は、翼を左右に揺らして挨拶してました。

東条英機が組閣した時、ウチに一通の電報が届きました。
『スグオイデ、マツ』との文面でした。

父はそれをきっかけに東京に直行し、東条の私設秘書になりました。」

若松華瑶の秘書としての役割は、新聞記者にカネを握らせて情報を得るなど、完全な裏仕事だったという。

2代目に、『里見甫の遺児への寄付金お願いをする会』の発起人名簿を見せて、発起人に初代・若松華瑶の名があるのを伝えた。

すると彼女は、こう語った。

「びっくりしました。父の名が発起人にあるなんて。

父は戦後になってからも、里見と付き合いがあったのですね。

戦後も祖神道を通じて里見と繋がっていたと、初めて知りました。

私が里見と初めて会ったのは、戦時中で、私は20歳前でした。

里見は家に来るときは、必ず男装の女性(梅村淳)を連れてました。

私は『里見さんて変な趣味ね』と思ったものです。

里見は無口でとっつきにくく、人を寄せ付けない感じでした。
お酒を全く飲みません。

それでも私を可愛がってくれて、洋服や時計や指輪を上海で購入してプレゼントしてくれました。

日本の敗戦後に、父はGHQの取り調べを受けました。

GHQは、父と東条の関係を知りたかったのでしょう。

父は戦後は政治から身を引きました。

『里見遺児への寄付願い・発起人名簿』にある中では、父は高島義彦と特に親しくしていました。

高島がどういう人かは知りません。」

2代目が言及した高島義彦は、戦時中は「海南島・厚生公司の東京事務所・責任者」という肩書だった。

海南島は、1939年に日本軍が占領して以降、阿片の原料となるケシの栽培が盛んに行われた所である。

高島義彦がケシ栽培を担当し、上海の里見甫が経営する「宏済善堂」が販売を担当した。

2代目の証言は、里見甫と初代・若松華瑶の阿片ビジネスの後ろに、東条英機がいたことを完全に証明したと思えた。

2代目はこうも話した。
「父に里見甫を紹介したのは、甘粕正彦だそうです。父は古くから甘粕と知り合いだったようです。」

甘粕正彦は、阿片ビジネスを取り仕切った者として有名だ。

2代目の証言は、禍々しい人脈図をあぶり出していた。

(※初代・若松華瑶の家に皇族が出入りしていた事からも分かるが、阿片の密売買、阿片ビジネスには、皇族も絡んでいた)

(2023年10月30日に作成)


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