(『阿片王 満州の夜と霧』佐野眞一著から抜粋)
林郁の『新編・大河流れゆく』の中に、日本軍のアヘン工作に関わった元特務機関員の告白がある。
「私は、アヘンを取り締まる一方で、アヘンを野放しにし、さらにアヘンをスパイ工作に使う現場にも居た。
この工作は、支那民族(中国民族)の滅亡策だと思った。
アヘンは、性的な興奮を強めて、性交に溺れさせる。
それで身体が衰弱し、子供は生まれなくなるし、生まれても育ちにくい。
それを承知でアヘンを使ったのは、相手を人間と見なかったからだ。」
1929年に青島でヘロイン製造の技師になり、その後に『南満洲製薬・株式会社』というヘロイン製造会社を設立した、山内三郎という男がいる。
(※ヘロインは、アヘンを濃縮して強めたものである)
山内三郎が戦後になって書いた『麻薬と戦争 日中戦争の秘密兵器』(人物往来、昭和40年9月号)という手記がある。
そこには、次の記述がある。
「いわゆる大陸浪人と呼ばれる、日本人の中国への渡航者たちは、特別なツテがなければいきなりメシの種にありつけない。
そうした彼らにとって、ヘロインの商売は魅力的だった。
先輩たちがヘロイン商売に手を染めて、大連・奉天・北支那の歓楽街で湯水のごとくカネを使っているのを見れば、真似をしたのも無理はない。
おまけにヘロインは、製造から販売にいたるまで駆け出しの素人でも役に立つ。
ヘロイン商売は違法だから、彼らの冒険心をも満たしてくれる。
だから大陸浪人の多くが、ヘロイン作りに蝟集した。」
陸軍中将だった池田純久の書いた『陸軍葬儀委員会』には、次の記述がある。
「満洲事変の当時、日本で食いつめた一旗組が、中国の奥地に流れ込んで、アヘンの密売に従事している者が多かった。
彼らは治外法権を楯にして、日の丸の国旗を掲げて公然とアヘンを売っていた。
だから中国人の内には、日の丸の旗を見て、アヘンの商標だと間違える者が少なくなかった。
時々、日本国旗の凌辱事件が起きたが、よく調べてみると、中国人はアヘンの商標だと思っていたという、笑い話の談さえあった。
ある名士が中国の奥地を旅行し、山間の寒村に日の丸が翻っているのを見て、日本の国威が支那の奥地に及んでいると随喜の涙を流したとの話がある。
それがアヘンの商標だと知ったら、彼は何と言って涙を流したであろうか。
とにかく、日本人のアヘン密売者は、中国人から蛇蝎のごとく恐れられていた。」
満洲のアヘンを語る時に、必ず引き合いに出されるのが、1929年に奉天で起きた『榊原農場事件』である。
張作霖が関東軍に爆殺されると、息子の張学良は父の陵墓に通じる軽便鉄道を敷設しようとした。
これに真っ向から反対したのが、榊原農場を所有する榊原政雄だった。
政雄は大川周明と親しかったが、それは政雄の妹が周明の許嫁だったことに起因する。
榊原政雄は、奉天の数百万町歩を自分の土地だと主張し、「軽便鉄道は自分の土地を通貨することになるので、絶対に罷りならん」と言って、大陸浪人を集めた。
政雄は、集めた数百人の満洲ゴロを使って、軽便鉄道の撤去に乗り出した。
これを見た関東軍は、一個中隊を派遣して、撤去を手伝って強行した。
榊原農場にはその後、満洲ゴロがたむろして、大量のヘロインを生産する無法地帯となった。
榊原政雄の背後に、関東軍がいた事は明らかだ。
(2024年1月25日に作成)