タイトル1935~36年の日中関係、日本の華北侵略工作など

(以下は『週刊文春 2023年11月2日号』出口治明の記事から抜粋
2026年6月1~2日に作成)

1933年5月に日本軍と中国軍は『塘沽(タンクー)停戦協定』を結び、満洲事変(日本軍の満洲侵略)はとりあえず停止した。

その後、中国政府(蔣介石ら)と(日本がつくった)満洲国は1934年に、『通車・通郵の交換』で合意した。
これにより鉄道の運行と、郵便のやり取りが始まった。

1935年1月に日本の広田弘毅・外相は、議会で「世界のいづれの国とも和平親善し、私の在任中に戦争は断じてない」と述べた。

中国政府の蔣介石はこれに応じて、日中の経済協力の方針を出し、排日運動の禁止令を公布した。

ところが日本軍は、中国の北部(華北)を奪うための工作を進めた。

塘沽(タンクー)停戦協定では、万里の長城の南部に非武装地帯を設定した。

日本軍はこれを使って、華北から中国国民党や排日勢力を一掃しようとした。

1935年5月に、華北の河北省・天津で、親日系の新聞の社長2人が殺された。

これを知った日本の天津駐屯軍は、中国軍の何応欽に猛抗議し、河北省から中国軍の撤退を迫った。

翌6月に『梅津・何応欽の協定』が成立したが、正式な文書は交わさなかった。
(※梅津は、日本軍の梅津美治郎のこと)

1935年6月には、同じく華北のチャハル省で、関東軍の特務機関員が4人、中国軍に拘束された。

これに怒った満洲国の奉天にある日本軍の特務機関の長である土肥原賢二は、圧力をかけて、中国軍の万里の長城より南への撤退、排日勢力の解散、日本軍の飛行場の設置などを、チャハル省主席代理の秦徳純に受け入れさせた。

これは『土肥原・秦徳純の協定』と呼ばれたが、これも正式な文書は交わしていない。

日本政府の広田外相は、こうした現地にいる日本軍の暴走(独断)について、「軍関係の出来事なので外交交渉にそぐわない」と無視(黙認)した。

1935年10月に広田外相は、『広田3原則』を発表した。

これは中国側に、排日運動の取り締まり、満洲国の承認、ソ連と対抗するための日中満の協力を求めたものだ。

中国国民党・政府は、さすがにこれを拒否した。

1935年11月に、蒋介石は幣制改革をした。
それまでの銀本位制をやめて、通貨「法幣」の発行を決めた。

これは1934年に米政府が作った『銀買上法』の影響で、中国から銀が大流出したためである。

この政策で3つの銀行が法幣を発行したが、その3銀行は蒋介石と近い財閥であった。

日本は華北において、この法幣改革を妨害した。

日本は1935年11月に、塘沽協定で定めた非武装地帯に、『冀東防共自治政府』をつくった。

これは傀儡政府で、日本軍が満洲国を使って行った麻薬の密貿易で儲けたカネでつくられた。

中国国民党・政府は、『冀察政務委員会』を設置して対抗し、河北省とチャハル省に管轄させた。

中国国民党・政府は、汪精衛(汪兆銘)という親日派が行政院長(首相)と外交部長(外相)を兼務していた。

「汪が弱腰だから日本軍に侵略されている」と考える中国人は多く、学生デモが起き、汪は1935年11月に撃たれて負傷し、首相と外相を辞任した。

翌12月にも、親日派の外交部次長・唐有任が、上海で暗殺された。

日本の岡田内閣は、華北の5省を中国から分離して日本が奪うことを国策とするため、『北支(華北)処理要綱』を定めた。

この国策は、次の広田内閣も続けた。

1936年11月に、『綏遠事件』が起きた。

日本軍は、徳王という人物を支援して、『蒙古軍政府」をつくった。

これも傀儡政府だが、徳王は日本軍の協力の下で、華北の綏遠省(すいえん省)に侵攻した。
これが綏遠事件と呼ばれている。

この戦争は綏遠省の国民党軍が大勝し、中国人たちは沸き立った。

1936年12月には『西安事件』が起き、蔣介石は「国共内戦の停止(共産党との和解)」と、「国共(国民党と共産党)が一致して抗日戦を行うこと」を約束させられた。

(※蔣介石はこの約束を守らなかった)

日本では1937年2月に、林銑十郎の内閣が発足した。

外相の佐藤尚武は、中国と平和のために交渉すべきと考えた。

陸軍の石原莞爾も、(この時点になると態度を変えていて)華北を奪う工作を否定する意見書を提出した。

4月に日本政府の陸相、海相、外相、蔵相の4人は、『対支の実行策』をまとめ、方針転換を図った。

しかし関東軍(日本軍の中国駐留部隊)は、中国を増長させるとして反対した。

そして7月に盧溝橋事件(日中戦争が本格化するきっかけとなった事件)が起きた。

(以下は『和平は売国か ある汪兆銘伝』山中徳雄著から抜粋
2026年6月9日に作成)

1933年5月に『塘沽(タンクー)停戦協定』が結ばれて、日本の中国侵略が停止すると、一時的に日中に友好ムードが生まれた。

日本政府の広田弘毅・外相は、1935年1月に帝国議会(国会)で「私の在任中は戦争は断じてない」と述べた。
これは中国側に好感をもって迎えられ、南京政府(国民党の政権)の指導者である汪兆銘と蔣介石は連名で排日運動の取り締まりを指令し、日中の親善につとめた。

しかし日本側は、中国側が譲歩を見せても、それに応えず譲歩をしなかった。

そして華北に侵攻するため、①国民党機関の華北からの撤退、②中国軍の河北省からの撤収、③河北省の主席の解職、を要求した。

これに衝撃を受けた国民党政府は、広田外相に日本軍を止めるよう求めたが、広田は拒否した。

そのため中国国民の排日運動は再び盛んになった。

国民党政府内では、親日派である汪兆銘に批判的な勢力が台頭し、親日派の唐有壬・外交部・次長が会議中に面罵され殴打される事件も起きた。

孔祥煕、宋子文、孫科らは対日強硬論を支持し、蔣介石は沈黙し続けたので、汪の立場は苦しくなった。

汪は国民党内の反汪の空気に耐えられなくなり、1935年7月下旬に青島にひきこもり、辞任を申し出た。

汪派といわれる顧孟余・鉄道部長、陳公博・実業部長、褚民誼・行政院秘書長らも辞表を出したので南京政府は混乱した。

蔣介石は会議を開いて汪の留任を決議し、孫科や張群を説得にさし向けたが、汪は納得しなかった。

35年8月下旬になって蔣介石と汪兆銘に了解が成立し、汪は南京政府に戻った。

蔣と汪は会見して、①汪が率いる行政院の権限を拡大して、政治は全て汪に任せる、②中央政治会を開いて蔣自らが汪支持を表明すること、が決まった。

汪は行政院長に復職して、日中の親善と国交の回復を進めることになった。

だが日本軍は華北への侵略の手をゆるめず、35年9月に中国駐屯軍・司令官に就いた多田駿は、汪らの努力を「一時しのぎ」と中傷し、「国民党および蔣介石政権(南京政府)を華北から除くため、武力行使もやむを得ない」と声明を出した。

さらに日本軍は、華北5省の準満州国化(華北分離)の政策を発表した。

中国で日本への怒りが高まる中、1935年11月1日に国民党政府の六中全会が開かれた。

ここで汪兆銘は銃撃を受けて、左ひじ、左こめかみ、ひじから背部へと、3発の弾丸を食らった。

手術の結果、ひじとこめかみの弾丸は摘出されたが、背中に入ったものは摘出できなかった。

狙撃犯は現場で捕まったが、孫鳳明(孫鵬明)という男で、裁判と処罰は公開されなかった。

また、汪が銃撃された時に、列席するはずの蔣介石が居なかったことから、色々な噂が流れた。

国民党の五全大会は、不安と反日運動の高まる中で開催されたが、蔣介石は「最後の関頭」と題する演説をし、「日本との和平が絶望にならない限り、忍耐して努力する」と話した。

その後、1935年12月25日に、汪の下で外交部・次長をする知日派の唐有壬が、上海の自宅前で何者かに暗殺された。

汪兆銘は療養のため辞表を出し、1936年2月にヨーロッパに向かった。

汪の後任として、孔祥煕が行政院長・代理となった。

1936年12月に、国民党政府の改組が行われ、蔣介石が行政院長となり、張群が外交部長、蔣作賓が内政部長、孔祥煕が財政部長になった。

一方、日本側は1936年1月に、中国に同情的な有吉明・駐華大使に帰国命令が出て、惜しまれながら帰国した。

後任は有田八郎だったが、3月に二・二六事件が起きて岡田内閣が総辞職となり、広田内閣が誕生すると、有田は外相に任命されたので帰国してしまった。

有田の後任は川越茂で、6月下旬に着任したが、直前の5月に日本軍は中国共産党軍の華北に対する脅威を理由にして、中国側に通告なく3千名の兵士を増強した。

中国民衆はさらに怒って、各地で日本兵の増員に反対運動が起き、緊張が高まった。
そして日本人へのテロ事件が頻発した。
7月に上海で引きた「萱生事件(かようじけん)」、8月に日本が成都に総領事館を強行開設しようとして起きた「成都事件」、9月に日本人商人を殺した「北海事件」などである。

9月15日から、川越大使と張群・外交部長による正式な国交再開に向けた会談が行われた。

すでに日本側は、上海と福岡を結ぶ航空路の開設、関税協定の復活、輸入税率の引き下げ、華北問題の解決など、7条件を申し入れていた。

これに対し張群は9月23日に、塘沽(タンクー)停戦協定および上海停戦協定の取り消し、(日本の後押しで生まれた)冀東政府の解消、華北の自由飛行の停止、察哈爾省および綏遠省の一部を攪乱している偽軍の解散、などを要求した。

議論が平行線をたどる中、10月8日に蔣介石と川越の会談が行われた。
しかし進展なく終わった。

再び川越と張群の会談が始まったが、12月2日に日本側が『交渉結末覚書』を読み上げて、交渉は決裂した。

有吉明はこう述懐している。
「日本の外務省は、軍部に対して真剣な説得を一度もしなかった。軍部の強硬派を説得する勇気も矜持も外務省の幹部になかった。」


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