満州事変を受けて中国国民党は統一政府をつくる、だがまとまらず(以下は『和平は売国か ある汪兆銘伝』山中徳雄著から抜粋
2026年6月7日に作成)
🔵分裂していた国民党は、満州事変が起きたことで1つにまとまる
1931年に(国民党の)南京政府では、蔣介石の独裁権力が確立して、立法院長をしていた胡漢民は監禁された。
これに憤慨した広東の実力者たちは、各地の軍閥などに声をかけて、1931年5月に「蔣介石の南京政府を討伐する」と宣言し、広東に新政府を立ち上げた。
当時、汪兆銘は香港にいたが、広東新政府に参加して指導者の1人になった。
汪は外交部長を日本に派遣して、新政府の成立を日本政府に説明した。
ところが、1931年9月に満州事変が起きたので、汪兆銘は蔣介石に対し「緊急事態である。2つある政府を統一させなければならないが、あなたが下野しなければ解決しない」と呼びかけた。
南京政府は緊急会議を開いて、広東政府の要求を協議したが、胡漢民を釈放して主席にし、蔣介石は軍の総司令官に専念する案を広東政府に提示した。
これを広東政府は了承して、胡漢民は釈放され、1931年12月に上海で汪、胡、蔣の3者会談が実現した。
この会談で蔣は、「今日の事態は自分の不徳のいたすところであり、今後の政治は諸氏に 任せる」と言ったので、一気に両政府の統一に進んだ。
1932年1月に、両政府は合体して、新しく「南京政府」が成立した。
この新政府は、汪兆銘が行政院長に就いて政治と党務を担当し、蔣介石は軍事委員長になって軍事を担当することになった。
新政府が出来てすぐの1月28日に、日本が『第一次・上海事変』を起こした。
中国国民は日本の侵略に怒りを高め、学生たちは対日戦争を要求するデモを行った。
日本軍は廟行鎮の戦いで、肉弾三勇士という美談を仕立てて、3人を軍神にまつり上げた。美談で侵略をごまかし、戦意向上にすり変えたのである。
汪兆銘は日本に対し、「一面抵抗、一面交渉」を掲げた。
彼はこう述べた。
「南京政府は日本との交渉で最低限度を設けている。
中国人民たちのつくる抗日団体の解散は、最低限度より上である。
しかし日本海軍が、閘北の中国軍の撤退を要求してきたことは、最低限度以下だから認めなかった。
また2月20日に日本が出してきた条件である、呉淞港に要塞を設けないことと、上海の周囲20支里内に中国軍を駐屯させないことも、我々は受け入れられなかった。
最後限度以下の場合は、拒絶して一戦あるのみである。」
5月5日に調印された「上海停戦協定」は、汪の主張が入れられたものである。
日本軍が1931年9月に満洲へ侵攻を始めた時、国民党の南京政府は直ちに北京にいる張学良と熱河省主席の湯玉麟に対し、「全力で日本軍の侵攻に抵抗せよ」と命じた。
しかし、張も湯も動かなかった。
南京政府の行政院長に就いた汪兆銘は、張学良の行動を見て、怒りの電報を張に送っている。
「兄(張学良)は昨年(1931年)に、奉天を放棄し、錦州も失っている。
南京政府の中央軍は、掃共戦(中国共産党との戦争)に従事しており、これを中断できない。
兄は軍容も整っているのに、一兵も動かさず、軍費ばかり求めてくる。
さきに多額の軍費を送ったのに、また多額を要求してきている。辞職して国民に謝罪されよ。」
汪兆銘は1932年8月に辞表を出して、上海に移った。
この原因については、「(軍事委員長の)蔣介石が張学良を庇護しているからだ」とか、「南京政府の宋子文・財政部長が汪の意見を聞き入れないからだ」と噂された。
汪の慰留が難航すると、宋子文が辞職し、張学良も辞表を提出した。
しかし張の辞職は、宋哲元らが連名で不服として抗議したので、南京政府はやむなく張を河北軍事委員に任命した。
一方、汪は翻心せず、病気と称して療養を理由に外遊に出てしまった。