タイトル斎藤内閣と帝人事件

(以下は『週刊文春 2023年10月26日号』出口治明の日本史講義から抜粋
2026年7月12日に作成)

1932年5月15日に、五・一五事件で犬養毅首相が暗殺されると、元老の西園寺公望は政党による内閣をやめて、首相に軍人を指名した。

西園寺が選んだのは海軍大将の斎藤実で、斎藤は朝鮮総督をしていた。

この斎藤内閣は、大臣たちは政友会と民政党の両方から選んで入閣させ、西園寺は「挙国一致内閣」と称した。

(※首相を天皇や元老が選ぶことも、西園寺が軍人を首相に起用したのも、間違っていたと思う。
当時の政治は間違ったことばかりで、その間違いの根幹には天皇が絶対的な君主だったことや、海外拡張主義だったことがある。)

斎藤内閣の蔵相には高橋是清が起用された。
是清は大量の赤字国債を発行して、日銀に引き受けさせて金利を下げた。

通貨(円)の発行限度も、1.2億円から一気に10億円に上げて、インフレに誘導した。

さらに陸軍予算を削り、軍事費のための公債発行を認めなかった。

斎藤内閣の政策に対し、国粋主義者たちは大きな不満を持ち、倒閣に動いた。

鈴木商店が倒産した時、保有していた22万株の帝人株の売却が図られたが、この帝人株を入手しようとする者たちが出た。

その者たちが帝人株を入手する際、中島久万吉・商工相、鳩山一郎・文相、三土忠造(みつちちゅうぞう)・鉄道相が関わったと報道された。

これが『帝人事件』である。

帝人事件では、財界人や台湾銀行の頭取、帝人の社長、大蔵次官などが、次々と摘発された。

そのため斎藤内閣は1934年7月に総辞職した。

帝人事件は、結局は容疑者の皆が無罪となり、裁判長は「全く犯罪の事実が存在しない」と述べた。

当時の警視総監は、「帝人事件は倒閣の謀略で、平沼騏一郎を首相にするための運動だった」と回想している。

斎藤実が首相をやめると、次は海軍大将の岡田啓介が首相に選ばれた。

西園寺が重臣会議を開いて、岡田に決めた。


NEXT【次のページ】に進む

BACK【前のページ】に戻る

目次【日本史の勉強 日中戦争(満州事変~日本の敗戦まで)】 目次に戻る

目次【日本史の勉強】 トップページに行く

home【サイトのトップページ】に行く