阿あ(以下は『週刊現代 2016年8月13日号、8月20・27日号』魚住昭の記事から抜粋)
千葉県市川市の江戸川沿いにある里見公園。
その隣にある総寧寺を訪ねた。上海で「阿片王」といわれた里見甫の墓があると聞いたからだ。
その墓石には「里見家之霊位」と刻まれ、側面には「岸信介書」とあった。
首相にもなった岸信介が、友情として里見甫の墓の文字を揮毫したのである。
草柳大蔵は『実録・満鉄調査部』(朝日新聞社刊)で里見甫をこう描いている。
「五尺五寸ほどの痩せた男である。頭の頂天が尖っていることのほかは、何の変哲もない風貌をしている。むしろ柔和である。
物静かな語り口で、周囲の人が「どうして生きているのか」と訝るほど食事を摂らない。
里見はアヘンを売ることで中国に途方もない害毒を垂れ流したが、彼自身は恬淡とした男だったらしい。
草柳によれば、里見は上海・虹口の乍浦路に面したピアス・アパートの3階に住んでいた。
秘書はおかず、「おちかさん」という身の回りの世話をする女性が通いで来ていた。
乗用車はビュイックの中古車で、しばしば藍衣社(蒋介石に直属する秘密結社)の狙撃の的になったが、運の強い男で、かすり傷ひとつ負わなかったそうだ。
日本が創った満州国は、表面上はアヘン根絶を目標に掲げたが、実のところ熱河地方でケシの栽培を奨励した。
足りない分は華北などから輸入し、満州国政府はアヘンの専売で莫大な利益をあげていた。
佐野眞一の書いた『阿片王 満州の夜と霧』には、里見の秘書だった者の証言がある。
岸信介は満州から帰国後の1942(昭和17)年に、翼賛選挙に立候補して当選した。
秘書役によれば、このとき里見は選挙資金として、岸に200万円(現在の約16億円相当)を提供した。
「鉄道省から上海の華中鉄道に出向していた岸の弟の佐藤栄作(後に首相)が運び屋になって、カネを岸に渡したんだ。これは里見自身から聞いた話だから間違いない」との証言である。
岸と里見の関係は、東京裁判に提出された里見の宣誓口述書にも出ている。
「私即ち李鳴(=里見の中国名)こと里見甫は、良心にかけて次のことが真実である事を誓います。
1937年9月又は10月に私は、新聞記者として上海に参りました。
私はそれ以前は天津に居たのです。
1938年1月又は2月に、日本軍の楠本実隆・中佐が「特務部(=支那派遣軍参謀部の一部)のために多量の阿片を売ってくれるか」と私に尋ねました。
彼はこの阿片がペルシヤから来る途中にあると言いました。」
(※里見の日本軍のこの依頼をうけ、阿片の密売を始めた)
里見はこのペルシャ産アヘンで得た利益は約2000万ドル(現在の日本円で数兆円相当)に上ることや、その利益は特務部(後に廃止)がある間は特務部に、それがなくなってからは興亜院(占領地の政務・開発にあたる日本政府の機関)に支払われたことを証言した。
他にも、1939年の末ごろには蒙古産アヘンも販売して、その大部分は中華航空機で運ばれてきたことを語っている。
里見が阿片を売って得たカネは、興亜院などに送られたが、その後にどこに行ったのか。
里見はこの部分は東京裁判で話さなかったが、私はいろんな文献にあたるうち、『阿片吸煙禁止処理経過事情』という文書に突き当たった。
宣誓口述書と同じく東京裁判に、検察側の証拠として提出されたものだ。
そこには〈売上金の大部分は、東条内閣の補助資金や、議員への補助金に割当てられるため、東京に送られた〉という衝撃的な記述があった。
この文書は1946年5月に、中国の南京高等法院からGHQ(連合国軍総司令部)に送られたもので、東京裁判の検察側証拠の一つになった。
この文書は、日本が中国を支配するのにアヘンをどう利用したかを、南京政府(汪兆銘政権。日本の傀儡政権だった)の元幹部である梅思平(同年9月、死刑)らの供述などに基づいて告発している。
『阿片吸煙禁止処理経過事情』の核心部を紹介する。
〈中国に於ける阿片取引は二つの理由によって、日本政府の系統的政策であった。
第一に、内蒙古の占領に続いて日本人により立てられた傀儡組織の蒙疆自治政府は、罌粟の栽培を習慣としている内蒙古で阿片を購う事に依って財政的不足を解決せんとした。〉
要するに、満州につづいて日本軍が占領支配した蒙疆(現在の内モンゴル自治区)政府の財政は、アヘンの売り上げで賄われていたということだ。
この事は、1980年代に江口圭一・愛知大名誉教授(故人)が発見した日本側資料によっても裏付けられた。
文書は、第二の理由として、日本政府自身も〈戦争に依る経済的困難〉を切り抜ける道としてアヘンに頼ったと指摘している。
そのうえで〈阿片購入用として指定せられたる蒙疆傀儡政府の貸附金〉は、まず東京の大蔵省に送られねばならず、〈そこで全額の幾分かは保留された〉と記している。
この「貸附金」とは何を指すのだろうか。
可能性として、①蒙疆政府→農民がケシから採取したアヘンを集める業者団体への貸付、②蒙疆政府→南京政府への貸付、③南京政府→蒙疆政府への貸付、などが考えられる。
しかし〈全額の幾分かは保留された〉というくだりは、アヘン購入資金が融資される段階で、東京の大蔵省に利益をピンはねされたという意味であることは想像できる。
『阿片吸煙禁止処理経過事情』は、続けてこう書いている。
〈他方では上海並びに中国の都市において売られた阿片の売上金の大部分は、東条内閣の補助資金、および議員への補助金に割当てられるため東京に送られた。それは公然の秘密であり、幾らかの本国内の日本人はこの東条内閣の政策に反対して居た。〉
この〈東条内閣の補助資金〉や〈議員への補助金〉は、簿外の内閣機密費や国会議員に配る裏金と考えるのが妥当だろう。
中国では、国民党の政府が樹立してからも、阿片の取引は減らなかった。
地方に残存する軍閥たちは、阿片を収入源にしており、しばしば阿片の争奪が内戦の火種となった。
軽量で高価な阿片は、通貨と同等に見なされるほどだった。
これに対し日本では、中国での阿片禍を反面教師にし、厳禁措置が採られた。
しかし日本政府は、日清戦争で勝利して台湾を領土にすると、台湾でケシ栽培をして、阿片ビジネスを始めた。
当時の内務省・衛生局長の後藤新平は、台湾で阿片を吸う習慣があるのに注目し、「政府が専売すれば巨額の収入が得られる」と主張した。
そして初代の台湾総督となった児玉源太郎の命令を受けて、台湾総督府の民生局長となった後藤新平は、阿片専売を実施した。
こうして大日本帝国は、植民地での阿片専売が基本方針となった。
ちなみに後藤新平は、初代の満鉄総裁にも就いている。
日本政府が国策とした、植民地での阿片専売は、最も大がかりに行われたのは傀儡国家の満洲国だった。
満洲国での阿片専売の利益は、満洲国政府の財政の基礎資金となり、日本軍の特務機関や憲兵隊の謀略資金にもなった。
満洲国は、阿片の上に築かれた砂上の楼閣と言っていい。
(2024年1月10、23日に作成)